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項 籍(こう せき、紀元前232年 - 紀元前202年)は、秦末期の楚の武将。秦に対する造反軍の中核となり秦を滅ぼし、一時“西楚の覇王〔佐竹靖彦は著書『項羽』でこの称号を疑問視する。〕”(在位紀元前206年 - 紀元前202年)と号した。その後、天下を劉邦と争い(楚漢戦争)、当初は圧倒的に優勢であったが人心を得ず、次第に劣勢となって敗死した。 姓は項、名は籍、字が羽である〔史記項羽本紀などによる。『史記索隠』では「字は子羽」とする。〕。以下、一般に知られている項羽(こうう)の名で記す。 == 生涯 == === 挙兵まで === 項羽は、楚の将軍であった項燕の孫で、項嬰の子〔項一族の家系図『東流 項氏宗譜 一巻』 "寄彬長子 二十七世 燕 「字叔燕,楚国大将,居下相王陵里,立昌平君,为荊王,以功高封东平君,娶申氏,生子四: 嬰、梁、伯、仲。」" "燕公長子 二十八世 嬰 「又名英,与弟梁同起兵攻秦,守彭城,娶龙氏,生一子: 籍。」" "嬰公之子 二十九世 籍 「字羽,号西楚覇王,娶虞氏,生一子: 隆。」"〕。項氏は代々楚の将軍を務めた家柄であった。項羽は両親を早くに亡くしたため叔父の項梁に養われていた。 『史記』によれば、項羽は文字を習っても覚えられず〔史記項羽本紀、「學書不成。」異説として、雨森芳洲は「ここでいう書とは歴史書のことで、項羽は『歴史書なんか歴史上の人名が分かれば良いのだ』と開き直ったのだ」という。通説では本文の通りで、滝川亀太郎も雨森の説を退けている。(『史記会注考証』)〕、剣術を習ってもあまり上達しなかった。項梁はそのことで項羽を怒ったが、項羽は「文字なぞ自分の名前が書ければ十分です。剣術のように一人を相手にするものはつまらない。私は万人を相手にする物がやりたい」と答えたので項梁は喜んで兵法を項羽に教えた。項羽は兵法の概略を理解すると、それ以上は学ぼうとしなかった〔項羽の兵法は漢書藝文志に「項王一巻」とあり、後世に伝わったが、現存はしていない。清の何シャクは「項羽の兵法に依って陣立てした黥布の陣立てを見た劉邦が、『あれは突撃して敵を破るのに適しているだけの陣だ。権謀の 策はまるで駄目な陣形だ』とバカにしたという話があるので、項羽は兵法をおそらく最後までやらなかったのだろう。だから劉邦に翻弄されて滅んでしまったのだ」と論じている。(『史記会注考証』)〕。 成人すると、身長が9尺(約207センチ)の大男となり、怪力を持っており、才気は人を抜きんでていたこともあって、呉中の子弟はすでに項羽には一目置いていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「項籍」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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