|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 田 : [た] 【名詞】 1. rice field
須田 盛秀(すだ もりひで、享禄3年(1530年)- 寛永2年(1625年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。二階堂氏、のち佐竹氏の家臣。秀行の子で、秀広、秀世、盛方の父。美濃守。源次郎。 == 経歴 == 二階堂盛義に仕え、盛義が亡くなりその後を継いだ二階堂行親も早世すると、盛義の後室大乗院(伊達晴宗娘)を助け須賀川城の実質的な城代となる。 盛秀は佐竹義重と手を結んで伊達政宗と対立するが、天正17年(1589年)6月摺上原の戦いで蘆名義広が大敗して蘆名氏が滅亡すると、伊達政宗に須賀川城を攻められた。盛秀は須賀川城に籠城して伊達軍に徹底抗戦したが、10月26日落城した。その際、盛秀以下の将兵全員が戦死したと記載をしている文献もあるが、これは誤りで、実際は須賀川落城後、自らの居城和田城を自焼して常陸に落ち、佐竹義宣に仕え文禄4年(1595年)茂木城主として須賀川衆と呼ばれた二階堂旧臣などおよそ百騎(茂木百騎)を預けられた。 盛秀は義宣の信頼が厚く、関ヶ原の戦いのあと義宣が出羽に移封されると慶長7年(1602年)角館城を受け取り城代をつとめ、さらに翌8年(1603年)横手城城代となった。なお、寛永元年(1624年)に改易されて秋田久保田藩へのお預けの身となった本多正純・正勝父子を監視役として預かったのは盛秀である。 寛永2年(1625年)死去。享年96。なお秋田県横手市の天仙寺に墓があり、法名は傑翁宗英大禅定門である。 category:戦国武将 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「須田盛秀」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|