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須田盛秀 : ミニ英和和英辞書
須田盛秀[すだ もりひで]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [た]
 【名詞】 1. rice field 

須田盛秀 : ウィキペディア日本語版
須田盛秀[すだ もりひで]

須田 盛秀(すだ もりひで、享禄3年(1530年)- 寛永2年(1625年))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将二階堂氏、のち佐竹氏の家臣。秀行の子で、秀広秀世盛方の父。美濃守。源次郎。
== 経歴 ==
二階堂盛義に仕え、盛義が亡くなりその後を継いだ二階堂行親も早世すると、盛義の後室大乗院伊達晴宗娘)を助け須賀川城の実質的な城代となる。
盛秀は佐竹義重と手を結んで伊達政宗と対立するが、天正17年(1589年)6月摺上原の戦い蘆名義広が大敗して蘆名氏が滅亡すると、伊達政宗に須賀川城を攻められた。盛秀は須賀川城に籠城して伊達軍に徹底抗戦したが、10月26日落城した。その際、盛秀以下の将兵全員が戦死したと記載をしている文献もあるが、これは誤りで、実際は須賀川落城後、自らの居城和田城を自焼して常陸に落ち、佐竹義宣に仕え文禄4年(1595年)茂木城主として須賀川衆と呼ばれた二階堂旧臣などおよそ百騎(茂木百騎)を預けられた。
盛秀は義宣の信頼が厚く、関ヶ原の戦いのあと義宣が出羽に移封されると慶長7年(1602年角館城を受け取り城代をつとめ、さらに翌8年(1603年横手城城代となった。なお、寛永元年(1624年)に改易されて秋田久保田藩へのお預けの身となった本多正純正勝父子を監視役として預かったのは盛秀である。
寛永2年(1625年)死去。享年96。なお秋田県横手市の天仙寺に墓があり、法名は傑翁宗英大禅定門である。
category:戦国武将


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「須田盛秀」の詳細全文を読む




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