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須藤康花 : ミニ英和和英辞書
須藤康花[すどう やすか]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ふじ]
 【名詞】 1. wisteria 
: [はな]
 【名詞】 1. flower 2. petal 

須藤康花 : ウィキペディア日本語版
須藤康花[すどう やすか]

須藤 康花(すどう やすか、1978年9月15日 - 2009年5月10日)は日本の画家。福島県生まれ、父親は東海大学教授須藤正親
30年の生涯で残された作品は1000点余り、母が思春期に病死したことと自分が病弱であったという現実世界の中で、生死流転、光と闇を追究した作品が多く、少女時代から親しんできた文学、映画という仮象世界を咀嚼しながら、実存主義的視点から絵画の昇華・止揚を目指した。
== 来歴・人物 ==
須藤康花は父親の仕事の関係で、短い生涯30年と8ヶ月の間に神奈川、札幌、沼津、東京、長野県麻績村に転居した。2歳の時にネフローゼを発症、病弱なため幼稚園はもとより、小学校も6年を通して半分も通っていなかった。幼稚園や小学校に通わない分、本を読んでいるか絵を描いているか、あるいは親と一緒にビデオの映画を観ている毎日であった。
画を描き始めた切っ掛けは葛飾北斎の風景画や漫画の模写だった。以後、成長するにつれレンブラントルーベンスベラスケスボッシュブリューゲルゴヤドーミエなどを模写しながらヨーロッパの絵画に親しむ一方、日本の作家では佐伯祐三国吉康雄香月泰男、それに仏画や絵巻物にも興味を寄せていた。
小学校時代に全国応募展で朝日新聞社賞、農林中金大賞などを受賞し、一般公募では最年少で25回水光会、24回道美展に入選した。体調の良い時には美術館巡りをするとともに、イタリアには短期ながら画集で接した作品などをじかに観るため2度ほど訪れているが、それ以上に京都や奈良に心惹かれ、1995年16才の時に書いた「私の目指す絵」で決意したように、軸足は常に日本に置かれていた。母親との奈良旅行の最後となった東大寺で南大門の「仁王像」をスケッチし、それを油彩で彼女なりに納得して完成したことも預かっているのだろう。後年大学時代、父親がフランスまたはイタリアへの留学を勧めたにも拘らず、断った。
須藤康花が師について本格的に絵を描き始めたのは、1994年画家青木洋子が主催する沼津美術研究所に入ってからであった。その後東京への転居とともに新宿美術学院を経て2001年多摩美術大学版画科に入学、2007年大学院を卒業するが、終生青木洋子を師と仰いでいた。
16歳で自分の目指す座標軸を定めた康花は、4年後の1999年20歳のときに詩作「魂の風景―夢幻彷徨」でその具体的な風景を描き出す。それは闇と光、生と死、美と醜が織り成す静謐な原始の世界、康花の魂を表出するものだった。弟岳陽、母礼子の死(1993年)は幼い心に世界がいつも光り輝く生気に満ちたものではないことを焼き付けるとともに、母の死と同時に母と同じ病慢性肝炎を知ることによって闇と死は、画家たち誰もが学ぶ対象としてではなく、彼女自身の存在そのものになって行った。不条理こそが彼女の実存となったのだ。彼女は言っている。「生まれながらに抱えた喪失感は埋まるためにあるのではない。決して埋まらない不完全な虚空にこそ永遠の意味がかくされている。」。しかし不条理な実存に甘んじていたわけではない。病苦に苛まれながらもアンガージュマンすることには誰よりも熱心だった。それは作品を制作することこそが不条理な実存から抜け出し、「甦生」(2006年、銅板)、「昇華」(2005年、銅板)することだと彼女は記しているように、残された多くの作品がそのことを語っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「須藤康花」の詳細全文を読む




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