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頼政神社(よりまさじんじゃ)は、茨城県古河市錦町(観音寺町)にある神社。旧社格は村社である。もとは古河城南端の立崎曲輪(頼政曲輪とも言う)にあったが、 渡良瀬川の河川改修工事のため、大正元年(1912年)に古河城北端の現在地に移転された。 ==祭神とその伝承== 祭神は源三位頼政(正一位頼政大明神)である。『古河志』・『許我志』に引用されている頼政神社縁起によれば、治承4年(1180年)の以仁王の挙兵において、源頼政が平氏に敗れて平等院鳳凰堂にて自害した後、従者が頼政の首を笈にいれて持ち帰ったところ、下総国葛飾郡古河の立崎(龍崎)で笈が急に岩のように重くなったため、この地に塚をもうけて祀ったとされる。このときの従者は、本縁起では「猪早太(いのはやた)」あるいは「下河辺総三郎」とされているが、該当する実存の人物は特定されていない。なお、『永享記』にも同様の記述があり、従者名が「下河辺三郎行吉」とされている。〔古河市史編さん委員会 編 『古河市史 通史編』 古河市、1988年、124-126頁(頼政神社縁起、各地の頼政社)〕 〔古河市史編さん委員会 編 『古河市史 民俗編』 古河市、1983年、709-710頁(神社一覧・頼政神社)〕 〔古河市史編さん委員会 編 『古河市史 資料 別巻』 古河市、1973年、251-261頁(古河志・頼政社)〕 一方、下野小山氏の菩提寺・天翁院にある小山氏系譜には、下河辺行義が頼政の首を葬ったとある。〔鑓水柏翠 『古河通史(上巻)』 柏翠会、1986年、68-71頁(下河辺行義、下河辺荘の故域)〕 同様に、頼政の首を葬ったとする伝承は、茨城県龍ケ崎市の頼政神社にもある。伝承の正確さは良く分からないが、かつての古河は下河辺氏の拠点であり、下河辺氏は源頼政の郎党であった。龍ケ崎地方の在地領主であった龍崎氏も下河辺氏の流れであった。〔 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「頼政神社」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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