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頼聿庵 : ウィキペディア日本語版
頼聿庵[いおり]
頼 聿庵(らい いつあん、享和元年2月20日1801年4月3日) - 安政3年8月30日1856年9月28日))は、江戸時代の儒学者。広島藩儒。名は元協、字は承緒。幼名は津具雄、通称は餘一。別号に春嶂・鶴年・迂娯軒。
== 略伝 ==
頼山陽の長子。母・淳(御園氏)のお腹の中にいる時に山陽が出奔したため、藩法により生まれてすぐ母は離縁され生家に戻され、以降祖父母にあたる頼春水梅颸夫婦に育てられる〔。春水の嫡子は山陽が出奔したため廃嫡されたことにより、養嗣として春水の弟である頼春風の子・頼元鼎(景譲)を迎えていた。山陽自身は捕らえられ連れ戻され春水の屋敷の離れ(現頼山陽史跡資料館頼山陽居室)に幽閉され、文化2年(1805年)謹慎が解かれたのち、文化8年(1811年)京都を拠点としている。聿庵は春水の屋敷で育てられ、幼き頃より春水や景譲、そして春水と春風の弟にあたる頼杏坪から薫陶を受ける。文化12年(1815年)景譲が病死、そのため聿庵が春水の嫡子となった。
文化13年(1816年)、聿庵16歳の時に春水が死去、広島頼家の家督を継ぐ〔。藩命により後見人に春風が着き、以降聿庵は春風や杏坪から学ぶことになる。文政元年(1818年)、藩の学問所に出仕。頼家は祖父・春水から代々藩儒を勤めており、聿庵もこれを引き継ぐことになる。
天保2年(1831年)5月、聿庵31歳の時に江戸詰となる。江戸に向かう最中、京都で父・山陽と対面を果たした。天保3年(1832年)広島藩奥詰次席。同年9月、父・山陽死去。天保4年(1833年)江戸詰の聿庵は藩主浅野斉粛に山陽の著書『日本外史』を献上する。江戸詰は天保4年まで。また藩主斉粛の嫡子である浅野慶熾の侍講となる〔。
広島に戻ると、春水に倣い家塾「天日堂」を起こす。天保12年(1841年)広島藩奥詰。また山陽死去により生活が苦しくなった腹違いの弟(いわゆる京都頼家)の頼支峰頼三樹三郎の面倒を見ている。ただ山陽死去後、聿庵は度々酒に溺れるようになっていき、親友の阪井虎山に窘められるなど周囲が心配するほどとなった。嘉永2年(1849年)2月藩主斉粛への直諫により閉門〔、嘉永3年(1850年)3月聿庵48歳の時に隠居、家督を嗣子・頼誠軒に譲った。
安政3年(1856年)病気により死去。享年56。墓所は広島市南区比治山にある多聞院。著作に「聿庵詩稿」など〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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