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額田六福 : ミニ英和和英辞書
額田六福[ぬかだ ろっぷく]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひたい]
 【名詞】 1. forehead 2. brow 
: [た]
 【名詞】 1. rice field 
: [ろく]
  1. (num) six 
: [ふく]
 【名詞】 1. good fortune 

額田六福 : ウィキペディア日本語版
額田六福[ぬかだ ろっぷく]

額田 六福(ぬかだ ろっぷく、明治23年(1890年10月2日 - 昭和23年(1948年12月21日)は、劇作家大衆小説作家。岡本綺堂の高弟。翻訳家額田やえ子の父。
== 生涯 ==
岡山県勝南郡勝田村(現在の勝田郡勝央町)に生まれた。本来の名前はむつとみ。5男2女の末子であった。勝間田尋常小学校のとき父を亡くしたが、家は豊かであった。勝南高等小学校を経て、明治37年(1904年)、津山中学へ進んだが、校則に触れ、京都市立命館中学へ転じた。
明治41年(1908年)17歳のとき、結核性関節炎になり、翌年右腕切断の手術を受けた。脊髄カリエスも病んだ。
明治44年の「演劇画報」誌の懸賞に、勝間田町から『踏絵』を応募して落選したが、その選者岡本綺堂に、入門を願って快諾を得、原稿を送り添削を受け推敲を重ねるという、通信指導を受けた。大正3年(1914年)から、俳句や小説を、雑誌や新聞へ投稿するようになった。
大正5年(1916年)26歳のとき、上京し、綺堂の世話も受けて下宿生活を始め、早稲田大学文学部英文科に編入入学した。この年「新演芸」誌の懸賞に、『出陣』が坪内逍遙の評価を得て当選し、大正6年正月の歌舞伎座で上演された。また、同4月新富座で旗揚げした沢田正二郎新国劇に、『暴風雨のあと』が取り上げられるなど、作家生活への道が開けた。
さかんに書き、当選もした。大正8年(1919年)『小梶丸』を新国劇が演じて当て、沢田正二郎と近づいた。大正9年4月、綺堂夫妻の媒酌のもとに結婚し、東京市外高田町(現在の東京都豊島区目白)に住んだ。のち2男1女を得た。同年7月、早稲田大学を卒業した。大衆雑誌・少年少女雑誌にも書いた。
大正15年(1926年)1月、沢田正二郎の『白野弁十郎』が大当たりし、以降新国劇の得意狂言となり、沢田正二郎島田正吾緒形拳と、「弁十郎」の系譜が続いている。エドモン・ロスタンシラノ・ド・ベルジュラックの、楠山正雄訳を、六福が翻案した台本である。
昭和2年(1927年)37歳のとき、杉並町阿佐ヶ谷(現在の杉並区阿佐ヶ谷北3丁目)に家を建てて移転した。あたかも実家が破産し、資金は、綺堂からの借金に頼った。
昭和5年(1930年)1月、岡本綺堂監修の月刊演劇雑誌「舞台」が創刊され、六福宅が「舞台社編輯部」となり、投稿への短評や編集後記などの執筆が、多用を増した。頭痛肉腫
蓄膿など多病でもあった。
綺堂が没した昭和14年(1939年)からは、「舞台」誌発行の中心になったが、十五年戦争下の世情で翌年廃刊に追い込まれた。
戦争中は、時局にかなう愛国的な作品も書いた。太平洋戦争開戦直後、脳溢血の発作を起こした。農村青年劇に力を入れた。空襲の始まった昭和19年(1944年)末、郷里へ疎開し、翌年秋、阿佐ヶ谷の自宅へ戻り、2回目の発作に倒れた。それでも、2巻の児童劇集を編んだ。
昭和22年(1947年)7月に『舞台』誌の復刊に漕ぎつけたものの、誌友間の対立で頓挫した。その対立の調停中、3回目の発作に倒れ、昭和23年(1948年)12月21日、呼吸不全のために没した。58歳。多磨霊園20区に葬った。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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