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推古天皇(すいこてんのう、欽明天皇15年(554年) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)『古事記』では戊子年3月15日)は、第33代天皇(在位:崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日) - 推古天皇36年3月7日(628年4月15日)36年、『古事記』では37年)。日本初の女帝(女性天皇)であり〔ベン・アミー・シロニー(著) Ben‐Ami Shillony(原著)『母なる天皇―女性的君主制の過去・現在・未来』大谷堅志郎(翻訳)、78頁。(第2章『女性統治者の出現』、5『最初の「天皇」は女性だった』、『日本で最初の「天皇」』)〕、東アジア初の女性君主である〔横田健一(著)『古代王権と女性たち』、吉川弘文館、1996年1月発行22頁''引用ー『女帝・女王は当時の東アジア世界にはまだいなかった。新羅第二十七代の善徳女王が王位についたのが六三二年のことで、推古天皇崩後四年目のことである。』''・・・。・ISBN 4-642-07408-2。〕。諱は額田部(ぬかたべのひめみこ)。和風諡号は豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと、『日本書紀』による。『古事記』では豊御食炊屋比売命という)。炊屋姫尊とも称される。『古事記』ではこの天皇までを記している〔『古事記』推古天皇段には「妹(いも)、豊御食炊屋比売(とよみけかしぎやひめ)命、小治田(をはりだ)宮に坐しまして、天の下治らしめすこと、三十七歳(みそじまりななとせ)なりき。分注、戊子の年の三月十五日癸丑の日に崩りましき。)御陵は大野の岡の上にありしを、後に科長(しなが)の大木陵に遷しき」(『古事記』)とある。小治田宮は奈良県高市郡。〕。 天皇号を初めて用いた日本の君主という説もある〔が、1998年の飛鳥池工房遺跡での天皇の文字を記した木簡が発見された以後は、天武天皇が最初の天皇号使用者との説が有力となっている。また、容姿端麗であった。 == 即位以前の動向 == 第29代欽明天皇の皇女で、母は大臣蘇我稲目の女堅塩媛。第31代用明天皇は同母兄、第32代崇峻天皇は異母弟。蘇我馬子は母方の叔父。 『日本書紀』推古紀に「幼曰 額田部皇女 姿色端麗 進止軌制 年十八歳 立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后 卅四歳、渟中倉太珠敷天皇崩」とあり、「姿色(みかお)端麗(きらきら)しく」、挙措動作は乱れなくととのって(進止軌制)おり、18歳、渟中倉太玉敷天皇(第30代敏達天皇)皇后となり〔これを採用した場合には欽明天皇32年(敏達天皇即位の年)に皇后となったことになり、広姫立后の記事と矛盾することになり、広姫立后記事か推古の立后時の年齢のいずれかが誤りの可能性がある。〕、34歳に渟中倉太玉敷天皇が崩御した。 『日本書紀』敏達紀では、欽明天皇32年(571年)に異母兄・渟中倉太珠敷皇子(敏達天皇)の妃となり、敏達天皇4年(575年)11月の皇后広姫の崩御を承け、敏達天皇5年3月10日(576年4月23日)、皇后に立てられた。「敏達14年8月乙酉朔己亥〔『古事記』分注では「甲辰年四月六日崩」〕」(8月15日)(585年9月15日)に敏達天皇が崩御した。 敏達天皇との間に菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)、竹田皇子、小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、尾張皇子(聖徳太子の妃橘大郎女の父)、田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)、桜井弓張皇女(押坂彦人大兄皇子の妃・来目皇子の妃)ら二男五女をもうけた。 用明元年(586年)夏5月、敏達天皇の殯宮に穴穂部皇子が侵入し、皇后を犯そうとした。寵臣三輪逆に助けられたが、逆は穴穂部皇子に同調した物部守屋らに追い詰められ殺された。その後、皇后は穴穂部皇子との関係を強要された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「推古天皇」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Empress Suiko 」があります。 スポンサード リンク
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