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顔 延之(がん えんし、384年 - 456年)は中国南北朝時代、宋の文学者。字は延年。本籍地は琅邪郡臨沂県(現在の山東省臨沂市)。宋の文帝や孝武帝の宮廷文人として活躍し、謝霊運・鮑照らと「元嘉三大家」に総称される。また謝霊運と併称され「顔謝」とも呼ばれる。 ==略歴== 顔延之は曾祖父に東晋の右光禄大夫顔含を持つなど、門閥貴族の家柄に生まれたが、父親を幼少の頃に失ったことから没落し、家は貧しかったという。顔延之は読書を好み、目にしない書物はなく、詩文の美しさは当時に卓越していたが、酒に酔うと細かい礼法を無視した振る舞いをし、30になっても独身であった。顔延之の妹は劉裕(のちの宋の武帝)の腹心劉穆之の息子の妻であり、劉穆之も顔家と代々のよしみで、顔延之の才能の評判も聞いていた。このため劉穆之は彼を仕官させようと思い、その前に会っておこうとしたが、顔延之は会いに行こうとしなかった。後に後将軍劉柳の行参軍となる。415年(義熙11年)、劉柳が江州刺史となると、その功曹として治所の尋陽(現在の江西省九江市)に赴任し、当地に隠棲していた陶淵明と知り合い、年齢を超えて親しく交際した。後年陶淵明が死去すると、顔延之は「陶徴士誄」を著しその死を悼んでいる。 416年、劉裕が後秦征服の遠征を起こして西晋の旧都洛陽を回復すると、朝廷では彼に宋公の爵位を授けることとなり、顔延之は勅使として洛陽に赴いた。この道中に作った詩2首〔『文選』所収の「北使洛」「還至梁城作」の2首か〕は、重臣の謝晦と傅亮の賞賛を浴びた。420年、宋が建国されると、顔延之は太子舎人に任じられた。 当時、尚書令の傅亮は自分の文才を自負していたが、顔延之も自らの才能を負けずに誇ったため、傅亮は彼をひどく憎んだ。また皇太子劉義符(のちの少帝)のすぐ下の弟、盧陵王劉義真は謝霊運・顔延之らと親密で、自らが皇帝になることがあれば、彼らを宰相に任ずると公言しており、徐羨之ら重臣たちから強く警戒されていた。このため422年に少帝が即位すると、顔延之は徐羨之らの策謀によって、盧陵王から引き離され、始安郡(現在の広西チワン族自治区桂林市)の太守として都から出された。 文帝即位後の426年(元嘉3年)、徐羨之・傅亮らが誅殺されると、顔延之は都に呼び戻され、中書侍郎・太子中庶子・歩兵校尉を歴任した。だが顔延之は劉湛・殷景仁らが重臣として要職を独占していることに不満で、彼らにしばしば逆らった。劉湛(前述の劉柳の子)に対し「私の官位が昇進しないのはお前の家の下働きをしていたからだ」と言ったことで彼の怨みを買い、434年、劉湛と彭城王劉義康により永嘉太守(現在の浙江省温州市)に左遷させられることになった。顔延之がこれに憤慨し、竹林の七賢の5人に自らをなぞらえた「五君詠」を作ると、劉湛と劉義康は詩の内容が傲慢だとしてさらに怒り、顔延之は以後7年間の蟄居謹慎を余儀なくされた。436年、東晋の恭帝の皇后の葬儀の際、顔延之に侍中任命の命令が下ったが、酒に酔っていた顔延之は届けられた文書を地面に投げつけ、「生者に仕えることもできないのに、死者に仕えることなどできるものか」と言い放ったという。 440年、劉湛が誅殺されると、始興王劉濬の諮議参軍と御史中丞を兼任したが、仕事ぶりはいい加減で、官吏の不正をまったく取り締まらなかったという。国子祭酒・司徒左長史に転任したが、不正行為に連座し弾劾されて免官となった。後に秘書監・光禄勲・太常を歴任し、453年に致仕を願い出て許される。同年、皇太子の劉劭が父の文帝を殺害すると、彼によって光禄大夫に任じられた。孝武帝が即位すると金紫光禄大夫となり、湘東王劉彧(のちの明帝)の教育係を兼任した。456年(孝建3年)死去、享年73。散騎常侍と特進を追贈され、憲子と諡された。 顔延之は偏狭で感情が激しく、酒に酔ってはしばしば他人を攻撃し、まったくはばかることがなかった。一方で身の処し方は慎ましく、財産に興味はなく、つねに粗末な衣食で間に合わせていた。息子の顔竣が孝武帝の重臣として権勢を誇っていた時も、顔延之は息子からの支給を一切受け付けず、もとの粗末な屋敷に住んでいた。村里に遊びに出かけ、旧知の者に会うたびに、馬に乗ったまま酒を所望し、酒がもらえればご機嫌だった。郊外の野原で独酌し、心にかなっている時は、いつもそばに人がいないかのように振る舞っていたという。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「顔延之」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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