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顔恵慶[がん けいけい]
顔 恵慶(がん けいけい)は清末、中華民国、中華人民共和国の外交官・政治家・教育者。北京政府では外交総長など閣僚を歴任し、一時は国務総理、臨時執政代行もつとめた。国民政府でも国際連盟中国代表団首席代表、駐ソ大使など要職を歴任した。字は駿人。弟に鉄道技術者の顔徳慶、堂弟(父方の従弟)に医学分野の教育家である顔福慶がいる。 == 事績 ==
=== 清末の活動 === 聖公会牧師顔永京の息子として生まれる。顔恵慶は地元上海の聖ヨハネ書院、英華書塾、同文書院で学ぶ。1895年(光緒21年)、アメリカへ留学、1897年(光緒23年)にバージニア大学に入学した。在学中はキリスト教会の学校で教師をつとめたり、中国駐米公使館で事務に携わったりしている。1900年(光緒26年)6月、バージニア大学を卒業し、8月に帰国した。帰国後は上海聖ヨハネ大学で6年以上教師をつとめる。1905年(光緒31年)、上海『南方報』英文版の編集者をつとめ、さらに『英華大辞典』の主編者となり、これを商務印書館から刊行した。1906年(光緒32年)9月、北京で留学生試験を受け、一等第二の優秀な成績をあげ、訳科進士とされている。〔娄(1996)、89-91頁。〕〔徐主編(2007)、2750頁。〕〔劉国銘主編(2005)、2421頁。〕 1907年(光緒33年)冬、顔恵慶は中国駐米公使館二等参賛に任ぜられ、公使伍廷芳に随従してアメリカに向かった。米国では外交事務に携わる傍ら、ジョージ・ワシントン大学で国際法を学び、さらにアメリカ国際法学会に加入している。1910年(宣統2年)帰国し、外務部主事、外務部参議をつとめた。辛亥革命が勃発すると、顔は袁世凱と共に各国の駐華公使を訪問してその支持を獲得し、袁から信任され外務部左丞に抜擢されている。〔娄(1996)、91頁。〕〔〔
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