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顔邵(顏邵、がん しょう、生年不詳 - 426年)は、南朝宋の官僚。本貫は琅邪郡臨沂県。 == 経歴 == 422年(永初3年)、謝晦が領軍将軍となると、顔邵はその下で領軍司馬となった。424年(景平2年)、謝晦が少帝を廃して文帝を立てようと計画したときには、顔邵はその参謀をつとめた。同年(元嘉元年)、謝晦が撫軍将軍・荊州刺史として江陵に赴任すると、顔邵はその下で諮議参軍となり、録事を兼ね、撫軍府の事務を全て委任された。謝晦の身に禍が起こることを予見して、竟陵郡太守の任を猟官して離れようとした。しかし郡に赴任する前に謝晦が宋の官軍の討伐を受けることとなり、顔邵は謝晦にともに起兵するよう求められたため、薬を飲んで死んだ。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「顔邵」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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