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顧澄 : ウィキペディア日本語版
顧澄[こ ちょう]

顧 澄(こ ちょう)は、中華民国の政治家・数学者。中華民国維新政府の要人である。養捂

== 事跡 ==
末に格致書院数学科を卒業する。1909年宣統元年)に、顧澄は四元数に関する文献を翻訳して『四原原理』という題名で出版し、中国に初めて四元数を紹介した。
その後、顧澄は北京大学清華大学で教鞭を執り、後には北平女子文理学院院長、東北大学数学系主任となった。1934年民国23年)2月より上海交通大学数学系教授となり、ここで中国初の全国規模の数学学術団体である中国数学会を創設している。さらに数学会から発行した雑誌の1つ『数学雑誌』や、上海交通大学科学学院が発行する『科学通訊』の総編輯を務めた。
1938年民国27年)3月に中華民国維新政府成立すると、その翌月に顧澄は教育部次長に任じられた。同年7月、内政部長陳群が教育部長署理兼任から外れたため、顧澄が暫時代理の地位に就く。翌年4月、顧澄は次長職から外れ、署理教育総長専任となった。そのまま、1940年(民国29年)3月に汪兆銘(汪精衛)の南京国民政府合流まで、その地位にあった〔上海交通大学数学系校友会ホームページによると、顧澄は汪兆銘政権でも教育部次長を務めたとしている。しかし劉寿林主編『民国職官年表』では、顧澄の名は汪兆銘政権の要人の中に見当たらない。〕。
以後、顧澄の行方は不明であるが、1947年(民国36年)頃に死去したという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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