|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 野 : [の] 【名詞】 1. field ・ 王 : [おう] 1. (n,n-suf) (1) king 2. ruler 3. sovereign 4. monarch 5. (2) king (for senior player) (shogi)
顧 野王(こ やおう、519年 - 581年)は、南朝梁から陳にかけての学者。字は希馮。本貫は呉郡呉県。『玉篇』の撰者。 == 経歴 == 梁の信威臨賀王記室の顧烜の子として生まれた。幼くして学問を好み、7歳で五経を読んで要旨を理解したといわれる。9歳で文章を作ることができ、日賦を作って領軍の朱異に賞賛された。12歳のとき、父に従って建安郡におもむき、『建安地記』2篇を編纂した。成長すると、経書や史書をあまねく読んで記憶し、天文・地理・占卜・篆字など広く学問に通じた。538年(大同4年)、太学博士に任じられた。中領軍臨賀王府記室参軍に転じた。宣城王蕭大器が揚州刺史となると、野王は王褒とともに賓客となり、蕭大器にその才能を愛された。野王はまた絵画を得意とし、蕭大器が皇太子となったとき、野王に命じて古賢を描かせ、王褒に賛を書かせると、当時の人はふたりを二絶と呼んだ。 侯景の乱が起こって父が死去したため、野王は呉郡に帰って郷里の郎党数百人を徴募し、義軍を率いて建康の援軍となった。喪中にあって哀毀に身を細らせながら、甲を着て戈を杖として、抗戦の名分を説きつづけた。建康が陥落すると、野王は会稽に逃れ、まもなく東陽におもむき、劉帰義と合流して侯景軍の侵攻をはばんだ。侯景の乱が平定されると、海塩県の使監をつとめた。 陳霸先が宰相となると、野王は金威将軍・安東臨川王府記室参軍となり、まもなく府諮議参軍に転じた。560年(天嘉元年)、学士に任じられ、招遠将軍の位を加えられた。567年(光大元年)、鎮東鄱陽王諮議参軍に任じられた。570年(太建2年)、国子博士となった。皇太子陳叔宝の下で東宮管記を兼ねた。574年(太建6年)、太子率更令となった。まもなく大著作を兼ね、国史の編纂に参与し、東宮通事舎人を兼ねた。当時の同僚に江総・陸瓊・傅縡・姚察らがあったが、みな野王の才能と学問を認めて重んじた。黄門侍郎に転じ、光禄卿となり、知五礼事をつとめた。581年(太建13年)、死去した。享年は63。秘書監の位を追贈された。584年(至徳2年)、さらに右衛将軍の位を贈られた。 撰著に『玉篇』30巻・『輿地誌』30巻・『符瑞図』10巻・『顧氏譜伝』10巻・『分野枢要』1巻・『続洞冥紀』1巻・『玄象表』1巻があり、当時に通行した。また『通史要略』100巻と『国史紀伝』200巻の編纂を構想したが、完成しないままに終わった。『文集』20巻があった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「顧野王」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|