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顧頡剛[こ けつごう]
顧頡剛(こ けつごう、Ku Chieh-kang、1893年5月8日 - 1980年12月25日)は中国の歴史学者・民俗学者。中国の歴史学派の一つである「疑古派」の創始者。 ==生涯== 江蘇省呉県(現在の蘇州市)にある古い読書人の家柄に生まれる。13歳の時には開設されたばかりの第一班高等小学に入学した。1913年に北京大学の予科に入学。1920年に北京大学哲学門を卒業し、上海の商務印書館・編輯員として勤務し、その後は厦門大学・中山大学・燕京大学・北京大学・雲南大学・山東基督教共和大学・国立中央大学・復旦大学・蘭州大学の教授を歴任する。1933年からは学術誌「Chinese Historical Geography」の編輯員を兼任している。1949年から中国科学院歴史研究所の研究員となる。1959年から『史記』をはじめとした全二十四史に校点をつけるという大事業に取り組む。1966年から始まる文化大革命の期間には、「資産階級反動学術権威」として糾弾され一時は廃業も考えるまで追い詰められたが、1971年4月に周恩来が『二十五史』校点事業の再開を命じたことにより研究活動が可能となった。1977年からは中国社会科学院の特級研究員として読書と著述を続け87歳で没する。遺言により遺体は中国医学科学院に献じられた。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「顧頡剛」の詳細全文を読む
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