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風船爆弾(ふうせんばくだん)とは、太平洋戦争において日本陸軍が開発した気球に爆弾を搭載した兵器である。秘匿名称は「ふ号兵器」。「風船爆弾」は戦後の用語で、当時の呼称は「気球爆弾」である〔〕。戦果こそ僅少であったものの、ほぼ無誘導で、第二次世界大戦で用いられた兵器の到達距離としては最長であり、史上初めて大陸間を跨いで使用された兵器であり、実戦に用いられた兵器としても約7700km(茨城県からオレゴン州への概略大圏距離)は、発射地点から最遠地点への攻撃である。 == 歴史 == === 開発 === 風船爆弾は、陸軍少将であった草場季喜によれば、昭和8年(1933年)には自由気球に爆弾を懸吊し兵器として使用する着想があったと伝えられ〔中川 勇『陸軍気象史』陸軍気象戦友会協議会 陸軍気象史刊行会、1986年 476p〕、ほぼ同時期に陸軍少佐であった近藤至誠が、デパートのアドバルーンを見て「風船爆弾」での空挺作戦への利用を思いつき、軍に提案をしたが採用されなかったので、軍籍を離れ、自ら国産科学工業研究所を設立し研究を進めた。この時点でコンニャク糊を塗布した和紙「メイジン紙」を使用することは近藤の想定の中にあった。昭和14年には関東軍に持ちこまれ、近藤は極秘研究主任となる〔"気球爆弾による米本土攻撃 吉田綱夫" 中川 勇『陸軍気象史』陸軍気象戦友会協議会 陸軍気象史刊行会、1986年 482p〕。昭和15年近藤は病死するが研究は進められ、神奈川県の陸軍登戸研究所で開発されている。試験の責任者は佐藤賢了であった〔松本健一 『日本の失敗 「第二の開国」と「大東亜戦争」』 岩波現代文庫 S134 ISBN 978-4006031343、269-271p〕。和紙とコンニャク糊で作った気球に水素を詰め、大気高層のジェット気流に乗せてアメリカ本土を攻撃しようとする兵器で、満州事変後の昭和8年頃から関東軍、陸軍によって対ソ連の宣伝ビラ配布用として研究され、小型の気球爆弾の研究命令は昭和14年8月に、ふ号兵器としては昭和18年(1943年)8月に研究命令が出され〔"気球爆弾による米本土攻撃 吉田綱夫" 中川 勇『陸軍気象史』陸軍気象戦友会協議会 陸軍気象史刊行会、1986年 476p〕、昭和19年(1944年)11月に風船爆弾として実用化した。当初は海軍も対米攻撃用にゴム引き絹製の気球の研究をしていたが、海軍の計画は途中で放棄され、機材と研究資料は陸軍に引き渡された。海軍式のゴム引き気球も少数、実戦に使用された。 1944年9月5日、陸海民の科学技術の一体化を図るため、陸海技術運用委員会が設置され、研究の一つにふ号も含まれていた〔戦史叢書87 陸軍航空兵器の開発・生産・補給457頁〕。開発責任者は第9陸軍技術研究所(登戸研究所)の草場季喜少将と書かれている資料もある〔埼玉新聞 2007年8月9日 1面「風船爆弾 東へ」〕。 当時、日本の高層気象台(現・つくば市)の台長だった大石和三郎らが発見していたジェット気流(偏西風の流れ)を利用し、気球に爆弾を乗せ、日本本土から直接アメリカ本土空襲を行うもので、千葉県一ノ宮・茨城県大津・福島県勿来の各海岸の基地から、1944年11月から1945年3月までの間約9300発が放球された。 気球の直径は約10m、総重量は200kg。兵装は15kg爆弾1発と5kg焼夷弾2発である。ジェット気流で安定的に米国本土に送るためには夜間の温度低下によって気球が落ちるのを防止する必要があった。これを解決するため、気圧計とバラスト投下装置とが連動する装置を開発した。兵装として爆弾を2発としたものや焼夷弾の性能を上げたものも発射された。爆弾の代わりに兵士2-3名を搭乗させる研究も行われた。 また、陸軍登戸研究所において研究されていた炭疽菌、ペスト等の搭載が検討され、登戸研究所第七研究班はふ号兵器用の牛痘ウイルス20トンを製造し使用可能な状態まで完成していた〔「医学者たちの組織犯罪-関東軍第七三一部隊-」常石敬一 〕が、昭和19年10月25日の梅津美治郎参謀総長の上奏に際して昭和天皇は本作戦自体は裁可したものの細菌の搭載を裁可せず、細菌戦は実現しなかった〔「もう一つの聖断」半藤一利、文藝春秋増刊『昭和の瞬間』1988 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「風船爆弾」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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