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鈴木 嘉和(すずき よしかず、1940年 - 1992年11月消息不明)は、風船おじさんとして知られたピアノ調律師。自称冒険者。 == 略歴 == 東京都でピアノ調律師の一家に生まれる〔石塚由紀子『風船おじさんの調律』未来社、2000年、p.125〕。国立音楽大学附属高等学校を卒業後、ヤマハの契約社員となり、東京都小金井市でピアノ調律業を営む。 1984年、44歳のときに音楽教材販売会社ミュージック・アンサンブルを起業して、ピアノカラオケの「マイナスワンテープ」というオーケストラからピアノの音を抜いた録音テープの販売を開始。1986年には銀座では音楽サロンのあんさんぶるを開店〔石塚由紀子『風船おじさんの調律』未来社、2000年、p.163〕。さらに麻雀荘やコーヒーサロンやパブレストランなどを経営していたが〔石塚由紀子『風船おじさんの調律』未来社、2000年、p.167〕、いずれもうまくいかず、1990年にミュージック・アンサンブルが4億円から5億円の負債を抱えて倒産。借金苦に陥る。ビニール風船26個を付けたゴンドラ(飛行船)「ファンタジー号」による太平洋横断で借金を返済すると債権者に語っていたという〔『週刊新潮』1992年12月24日・31日合併号〕〔「風船おじさんが遺した意外な発明品」『週刊文春』2001年1月4日・11日合併号、p.56。〕。 1989年に横浜市で開催された横浜博覧会にテナント出店をしたが、会場内における立地が悪いことや、博覧会自体の集客が順調でないことから経営は不振だった。これに対し博覧会運営当局が対策を取らないことに抗議して、同年7月30日に高さ30メートルの塔に博覧会のマスコット「ブルアちゃん」のぬいぐるみを着てよじ登り、塔からは「団体バス駐車場を開放してね」という垂れ幕を垂らした。7時間立てこもり、119番通報されたハシゴ車と警察が出動する騒ぎになった。警察によって引き降ろされたが、抗議の際には出店に3,000万円を要したとしていた〔「通風筒」『中日新聞』1989年7月31日号。〕〔石塚由紀子『風船おじさんの調律』未来社、2000年、p.79〕。 この抗議の後、独自の客寄せとしてヘリウム風船の浮力で高さ10メートルから20メートルに浮かぶ「空中散歩」を自費で博覧会場に設置した。 経営する銀座のパブに出資してもらったことから〔、1991年7月から歌手のグラシェラ・スサーナのマネージャー業をしていたが、1992年になって、契約を解消〔『週刊文春』1992年12月17日号〕〔『週刊朝日』1992年12月25日号〕。 1992年4月17日には、風船で飛び立ち、民家の屋根に不時着する事故を起こした。府中署防犯課の警察官の制止を聞かずに東京都府中市の多摩川河川敷から千葉県の九十九里浜を目指してヘリウム風船で飛び立った。自分が座った椅子に5メートルと2.5メートルの風船各2個を直接くくりつけて飛行していたが、おもりの15kgの砂袋2個がはずれて急上昇し、予定の高度400メートルが5,600メートルの高度に到達したため、当日購入していた百円ライターの火であぶって5メートルの風船を切り離した。この後、高度が下がり、午後1時40分頃に出発地点から24キロメートル離れた東京都大田区大森西七丁目の民家の屋根に不時着した。しかし左手に怪我をした程度で済み、駆けつけた蒲田署員に謝罪しつつも、成功すれば次はハワイをめざす予定だったと語り、改めて再挑戦することを誓っていた〔〔「冒険風船あえなく不時着」『読売新聞』1992年4月18日号。〕〔「風船で空中散歩 落下し男性けが」『中日新聞』1992年4月18日号。〕〔「20キロ先の民家に不時着、瓦割る 風船の冒険男性」『毎日新聞』1992年4月18日号。〕〔「青鉛筆」『朝日新聞』1992年4月18日号。〕〔石塚由紀子『風船おじさんの調律』 未来社、2000年、p.90〕。一方、民家は瓦が壊れ、テレビアンテナが曲がる被害を受けたが、弁償も挨拶もなかったという〔。 この初飛行の後、NHKのラジオ番組にゲスト出演し、その際、風船による太平洋横断計画について語っている。しかし、この4月の実験飛行の失敗によって、マスコミ各社は距離を置くようになり〔、風船のヘリウムガスを売ってもらえなくなった〔三輪茂雄「彼の出発状況 」(Internet Archiveのキャッシュ)〕。 同年11月23日に「ファンタジー号」に乗り、琵琶湖湖畔から太平洋横断を目指し出発したが、数日後消息はとだえた(後述参照)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「鈴木嘉和」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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