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飛松 甚吾(とびまつ じんご、1883年10月16日 - 1945年4月17日)は、熊本のハンセン病病院・回春病院の事務長を務めた人物(1915年 - 1941年)。 == 人物、略歴 == 大分県で出生後、京都で育つ。京都の母方の実家の兄の養子になり、飛松姓を名乗る。1904年、20歳時、京都の小学校の後輩(当時18歳)と結婚。得意な英語を活かして神戸の税関に勤務していた時に、ハンナ・リデルの事業を偶然知り、直接彼女に会った上で、1915年から妻と3人の子供と共に熊本の回春病院に勤務することになる。 * ある神社の境内で拾った新聞を読んでリデルの事を知り、感銘を受けたとある。 * 回春病院勤務時には、常にリデルの側近にあり、病院の庶務を担当、病院経営、関係諸機関との折衝、財政援助の要請、負債の償却や基本金の蓄積に努力した。リデルの住む家や、あとでは、ライトが住む、回春病院の近くに住んだ。英国系の王栄幼稚園設立の交渉なども行った。 * 毎夏のリデルの軽井沢行きに同行、国内外有力者と折衝した。 * 1930年、皇太后より蒔絵箱と金一封を受ける。その後熊本県知事、らい予防協会、三井報恩会より表彰を受ける。 * 回春病院はイギリス系の病院であるので、太平洋戦争が近くなり、当局の扱いが厳しくなった。1940年9月、突然特高警察に拘置された。ライトなどが釈放に尽力したが、3カ月後、体へのダメージが大きくなってから釈放された。その後自宅で病床についた。1941年2月3日、回春病院は閉鎖。1945年4月17日、自宅で死去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「飛松甚吾」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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