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飛鸞丸 : ミニ英和和英辞書
飛鸞丸[ひ]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ひ]
 (n) (abbr) rook (shogi)
: [まる]
 【名詞】 1. (1) circle 2. (2) full (month) 3. (3) perfection 4. purity 5. (4) suffix for ship names 

飛鸞丸 ( リダイレクト:翔鳳丸 ) : ウィキペディア日本語版
翔鳳丸[しょうほうまる]
翔鳳丸(しょうほうまる)は、鉄道省青函航路車載客船で、翔鳳丸型の第1船であった。
日本で最初の車載客船で、後に建造された鉄道連絡船の原型となった。
翔鳳丸型は翔鳳丸・飛鸞丸(ひらんまる)・津軽丸(つがるまる)(初代)・松前丸(まつまえまる)(初代)の4隻で、翔鳳丸と飛鸞丸は浦賀船渠で、津軽丸と松前丸は三菱造船長崎造船所で建造されたが、浦賀船渠製と三菱造船製の間には仕様に相違があった。 この翔鳳丸型は全て太平洋戦争で失われた。ここでは、これら翔鳳丸型と青函航路における車両航送システムについて記述する。
==車載客船建造までの経緯==
第1次世界大戦(1914~1918年)勃発による世界的な船腹不足は、日本においても海運貨物の鉄道への転移を招き、従前より貨物輸送力の逼迫していた青函航路は混乱状態に陥ったうえ、1917年(大正6年)以降は急激な旅客増加もあり、 客貨双方の抜本的な増強策が求められた。このため、当時の鉄道院運輸局船舶課は、小規模ながら、1911年(明治44年)から運航していた関門海峡を渡る関森航路(下関-小森江)の貨車ハシケ(1919年(大正8年)8月1日からは自航式貨車渡船第一関門丸第二関門丸併用)による貨車航送の実績が良好であったことから〔貨車航送は、荷役時間の大幅短縮による貨物の速達性向上、連絡船折り返し時間短縮による船と岸壁の稼働率向上、貨物の損傷や紛失の激減などの利点がある。しかし、貨車積載場所が船艙ではなく車両甲板上に限られるため、重心が高くなるうえ、同じ重量の貨物を積載するにはより大型の船を必要とし、その構造も複雑なため建造費も高くなる。更に他航路への転用も制限され、岸壁にも貨車を安全に積卸しできる設備を要するなどの問題点もあったが、関森航路での数年間の実績では、明らかに利点が勝っていた。〕、これを15トン積み有蓋貨車16両積載と大型化したうえ、比羅夫丸型を上回る685名の旅客も乗船できる車載客船とし、青函航路に投入して一挙に客貨輸送力不足を解消しよう、という画期的な改革案を1918年(大正7年)に立案した〔鉄道技術発達史 第6篇(船舶)p21 日本国有鉄道1958〕〔青函連絡船史p59、60 国鉄青函船舶鉄道管理局1970〕。しかし、当初は鉄道院内でも反対論が多かったが、1925年(大正14年)の全国鉄の自動連結器化や、1924年(大正13年)の青森港第1期修築工事竣工が決まったこともあり、1919年(大正8年)にはこの改革案は採用された。更に1920年(大正9年)9月決定の最終要求条件では、郵便手小荷物車積載可能な中線を含む船内軌道3線となり、旅客定員も940名とされ、当初案よりかなり大型化していた〔山本煕 車両航送p214 日本鉄道技術協会1960〕。当時、日本にはこのような大型の車載客船建造運航の経験がなかったため、鉄道省1909年(明治42年)開設のバルト海を行くドイツ ザスニッツとスウェーデン トレレボリ間航路(58海里)の3,000総トン級車載客船Drottning Victoria号などを手本として設計し〔〔古川達郎 連絡船ドックp59 船舶技術協会1966〕、1921年(大正10年)12月に浦賀船渠へ2隻、翌1922年(大正11年)12月には三菱造船長崎造船所へ更に2隻の建造を発注した。
== 概要 ==

=== 車両積載設備 ===
翔鳳丸型では車両甲板船尾より車両の積卸しを行い、車両甲板には船尾端を起点に軌道が3線敷設され、通常運航時接岸する左舷側から船1番線、船2番線、船3番線と呼称した〔通常運航時接岸する舷(青函では全船左舷、宇高では紫雲丸型のみ右舷、第三宇高丸以降は左舷)から順に番線を付与するこの方式が青函、宇高両航路で最後まで続けられた:山本煕 車両航送p220 日本鉄道技術協会1960〕〔青函連絡船車両航送取扱手続 第三条(線路の呼称) 2項 線路の呼称 で規定〕。中央の船2番線は機関室囲壁で行き止まりのため軌道有効長39mと短く、荷物車2両またはワム型貨車〔ワムは標準的な15トン積み有蓋貨車で、1917年製造初年のワム3500は積載重量15トン、自重8~9トン、連結面間長7.83mで、車両渡船にとっては限られた長さの軌道に何両積めるかが問題で、貨車の重量よりも長さ(連結面間長)が重要であった。ちなみに1960年製造初年のワム60000では積載重量15トン、自重9.3~9.7トン、連結面間長7.85mであった〕5両、左舷の船1番線は同77m、右舷の船3番線は同81mで、それぞれワム型貨車を10両ずつ積載でき、ワム換算で合計25両の貨車積載が可能であった〔山本煕 車両航送p220 日本鉄道技術協会1960〕。
各線に積み込まれた列車の最前部の連結器は、軌道終端の車止めの連結器に連結された。各線の列車の最後部では、“乙種緊締具”と称するターンバックル付きの二股の鎖を用い、鎖の一端を最後部連結器に巻きつけ、他の二端のフックを列車後方の甲板面に設置した緊締用鉄環に掛け、ターンバックルで締め上げ、列車を引き伸ばして固定し、縦揺れによる車両の前後移動防止を図った。更に最後部車両の車輪の後ろ側のレール上に、車輪が後方へ転動しないよう、左右両輪が当たる部分のみ断面が直角三角形になるよう枕木に切り欠きを入れた車輪止めをかまして、万一の車両の後方への逸走を防いだ。
また、横揺れによる車両横転防止には、“甲種緊締具”と称する一端がハサミ状、他端がフック付きのターンバックルを用い、ハサミで車両台枠の鉄骨をはさみ、フックを斜め下側方の甲板面に設置された緊締用鉄環に掛け、ターンバックルで締め上げて車両を固定した。しかし船が大きく横傾斜すると、それに伴って横傾斜した車両の、傾斜した側のバネが車体の重みで圧縮され、その側に掛けた甲種緊締具が緩んで、場合によっては外れることもあるため、荒天時には、二軸車は板バネと台枠の間に木製の楔を打ち込み、ボギー車は車両甲板上に置いた盤木や支柱で車体を直接支持して“バネ殺し”し、甲種緊締具が緩まないようにした 〔山本煕 車両航送p223、224 日本鉄道技術協会1960〕〔古川達郎 連絡船ドックp106〜113 船舶技術協会1966〕。これらの緊締具は、その後も改良されながら1988年(昭和63年)の青函連絡船の終航まで使用された。
なお、船内軌道のレール敷設方法は、浦賀船渠製では車両甲板面に軌道方向に固定した高さ約20cm幅約25cmの縦枕木上へレールを犬釘で固定したのに対し、三菱造船製では車両甲板面にリベット固定した高さ約9cm幅約25cmの溝形鋼の溝の中に設置したレールチェアーにレールをネジ込ボルトで固定して重心低下を図った〔山本煕 車両航送p222 p225 日本鉄道技術協会1960〕。
 

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「翔鳳丸」の詳細全文を読む




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