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飯富 虎昌(おぶ とらまさ)は、戦国時代の武将。甲斐武田氏の重臣。 武田信虎の時代から武田家の譜代家老衆として仕え、信濃佐久郡内山城を領した。名は虎昌とされるが、義信側近が連署した「二宮祭礼帳」にその名は見当たらず、検討の余地がある〔。 == 生涯 == === 信虎時代 === 飯富氏は甲斐源氏の一族で、源義家の四男・源義忠の子・飯富忠宗の末裔と言われる。別説に古代の多氏の末裔説がある。戦国時代の甲斐国では武田信虎家臣に飯富道悦がおり、『勝山記』によれば永正12年(1515年)10月17日に道閲は西郡の国人・大井信達との戦いにおいて子息とみられる「源四郎」とともに戦死している。この飯富源四郎が虎昌・山県昌景兄弟に父親にあたると考えられている。 永正元年(1504年)に生まれたとされているが、生年には諸説があって定かではない。 享禄4年(1531年)、今井信元・栗原兵庫らと共に信虎に反旗を翻したが、敗れて降参し、許されたのちは信虎に臣従した〔。天文5年(1536年)に北条氏綱が駿河に侵攻すると、信虎と共に今川軍の援軍として参戦し、北条軍を大いに破った。天文7年(1538年)にも諏訪頼満・村上義清の連合軍と戦い、このとき寡兵であるにも関わらず、数で勝る連合軍を打ち破り、自らは首級97を挙げるという軍功を挙げたとまでされている。 天文10年(1541年)、武田家宿老であり有力国人であった板垣信方、甘利虎泰らと共に信虎の嫡男・晴信を擁立して信虎を駿河に追放し〔、以後は武田家の宿老として晴信をよく支えた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「飯富虎昌」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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