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宗祇(そうぎ、応永28年(1421年)- 文亀2年7月30日(1502年9月1日))は、室町時代の連歌師。号は自然斎、種玉庵。姓は飯尾(いのお/ いいお)というが定かではない。生国は、紀伊とも近江とも言われている。 == 概要 == 若いころ京都相国寺に入り、30歳のころ連歌に志したという。宗砌、専順、心敬に連歌を学び、東常縁に古今伝授を授けられた。また、常縁の弟である正宗龍統から漢学を学んでいる。 文明5年(1473年)以後、公家や将軍、管領の居住する上京(かみきょう)に種玉庵を結び、三条西実隆他の公家や細川政元他の室町幕府の上級武士と交わった。 また、畿内の有力国人衆や周防の大内氏、若狭の武田氏、能登の畠山氏、越後の上杉氏ら各地の大名をたずねている。長享2年(1488年)3月に北野連歌所宗匠となり、名実ともに連歌界の第一人者となった。この職はまもなく兼載に譲り、明応4年(1495年)6月に兼載らと『新撰菟玖波集』を撰集した。生涯を通じ、たびたび各地を旅したが、文亀2年(1502年)弟子の宗長、宗碩らに伴われて越後から美濃に向かう途中、箱根湯本の旅館で没し、駿河桃園(現:静岡県裾野市)定輪寺に葬られた。 応仁の乱以後、古典復興の気運が高まり、地方豪族、特に国人領主層に京都文化への関心と連歌の大流行が見られた。宗祇は、連歌本来の伝統である技巧的な句風に『新古今和歌集』以来の中世の美意識である「長(たけ)高く幽玄にして有心(うしん)なる心」を表現した。全国的な連歌の流行とともに、宗祇やその一門の活動もあり、この時代は連歌の黄金期であった。 連歌の作品として『水無瀬三吟百韻』、『湯山三吟百韻』、『葉守千句』があり、句集に『萱草』(わすれぐさ)、『老葉』(わくらば)、『下草』(したくさ)、紀行文に『白河紀行』、『筑紫道記』(つくしみちのき)、連歌論に『吾妻問答』、『浅茅』などがあり、源氏物語の注釈書『種玉編次抄』など古典の注釈書も多い。和歌の西行、俳句の松尾芭蕉とともに連歌を代表する漂泊の人である。 肖像も複数残り、国立歴史民俗博物館の寿像(外部リンク )は重要文化財で、図上には宗祇より古今伝授を受けた三条西実隆が着賛する。ボストン美術館には狩野元信の花押がある騎馬図(外部リンク )を所蔵し、また柿本人麻呂像に倣い脇息にもたれ団扇を持つ坐像がいくつか知られる(奈良県立美術館、藤田美術館など)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「宗祇」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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