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飯島 滋弥(いいじま しげや、1918年10月11日 - 1970年8月9日)は、日本のプロ野球選手、野球解説者、プロ野球指導者・監督。千葉県香取郡吉田村(現:匝瑳市吉田)出身。 == 来歴・人物 == 旧制千葉県立千葉中学校(現:千葉県立千葉高等学校)時代に甲子園大会に二度出場〔『シリーズにっぽんの高校野球 vol.8 関東編Ⅰ』(ベースボール・マガジン社) 73頁。ISBN 978-4-583-61575-2〕。旧制慶應義塾大学に進学後は一塁を守り「百万ドルの内野陣」と謳われた。東京六大学リーグ通算38試合に出場し、112打数25安打、打率.223、1本塁打。日立航空を経てにセネタースに入団。1年目から打率.312(7位)、本塁打12本(2位)の成績をあげる〔年度別成績 1946年 〕。しかし翌年以降結果が出ず、フロントとの確執もあってに大映スターズに移籍。この年は打率.293、本塁打25本を放ち主軸に返り咲く。 10月5日の対阪急戦(大須球場)では1回表に満塁ホームラン、7回表に満塁ホームランと3ランホームランの1イニング2本塁打の計3本の本塁打を放ち、1試合2満塁本塁打、1試合11打点、1イニング7打点の日本記録を打ち立てた。に打率.336で首位打者のタイトルを獲得〔年度別成績 1952年 パシフィック・リーグ 〕。に南海に移籍。同年限りで現役を引退した。 引退後は、日本短波放送、文化放送、フジテレビ、ニッポン放送、ラジオ関東で野球解説者として活動。に打撃コーチとして古巣・東映に復帰し、「月に向かって打て」という名言で大杉勝男をホームラン打者として大成させたことで知られる。から二軍監督。同年シーズン途中で休養した監督の大下弘に代わり後半からは監督代理を務めた。限りで退団。1970年8月9日に胃がんのため死去〔『朝日新聞』1970年8月11日付夕刊 (3版、9面)〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「飯島滋弥」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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