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飯田 徳治(いいだ とくじ、1924年4月6日 - 2000年6月19日)は、神奈川県横浜市出身のプロ野球選手・監督。 == 来歴・人物 == === 現役時代 === 浅野綜合中学校から東京鉄道局に就職し野球部に入部。中学時代はエースで4番〔野球殿堂2012 The Baseball Hall of Fame 野球体育博物館 (編集)、ベースボールマガジン社、2012年、P64-65〕、鉄道局時代に一塁手へ転向し4番として活躍した〔。1942年の都市対抗野球では打率.556をマークして打撃賞を獲得した〔。戦争をはさんで1946年の都市対抗にも出場。実業団の若手の中で随一のプレーヤーだった〔。 1947年、南海ホークスに入団。2年目からレギュラーに定着。チャンスに強く〔長打の打てるバッティングと6年連続40盗塁の俊足で、中心選手として南海の5度の優勝に貢献。1949年、5月21日の巨人戦では満塁サヨナラ本塁打を放っている〔HAWKS the 70th―ホークス栄光の軌跡、ベースボールマガジン社、2008年、P60〕。1951年~1952年に打点王、1955年にMVPを獲得。その後木塚忠助、蔭山和夫、岡本伊三美らが入団、いわゆる「百万ドルの内野陣」が結成されるのだが、その中でも飯田の一塁守備が光った〔。特に一塁守備でのワンバウンド送球に対するグラブ捌きは、戦前の名一塁手・中河美芳の跡を継ぐ「タコ足二世」と呼ばれた。ショートバウンドの処理は抜群で、それまであまり問題にされなかった一塁手の守りの重要性を飯田は認識させた。走攻守にわたって隙の無い選手として活躍した。守備の負担軽減を狙って1955年より中堅手に転向した。同年飯田は4度目の3割台をマーク、リーグ最多の163安打を放ちMVPに選ばれたが、この年も143試合にフル出場したのが大きく評価されたと思われる〔。同年8月24日のトンボ戦でサイクル安打を達成する〔HAWKS the 70th―ホークス栄光の軌跡、ベースボールマガジン社、2008年、P69〕。1956年には154試合にフル出場〔。外野手転向2年目だったが、脚力を生かして広い守備範囲を誇りソツなくこなした〔。 1956年シーズンオフ、飯田は10年選手の権利を得たため南海にボーナスを要求したが、南海は長打力重視のチーム方針から力の落ちた飯田に対してボーナスを支払う意思はなく、飯田は国鉄スワローズへ金銭トレードに出され、南海が国鉄から受け取ったトレード金銭を、飯田はボーナス代わりに受け取った。 国鉄に移籍した1957年より一塁手に戻り、40盗塁で盗塁王に輝くなど1番打者として脆弱な打線を牽引するが、1958年5月24日の対阪神戦(阪神甲子園球場)で走塁中、二塁ベースにつまずきアキレス腱を断裂して、1948年9月12日(金星スターズ戦)以来続いていた連続試合出場記録は1246試合で止まった。広島の衣笠祥雄に破られるまで長く日本記録だった〔。しかしながら、連続試合出場中の1951年の南海の公式試合数は「104」ながら当人の試合出場数が「100」になっているのは開幕前にパリーグ選抜軍のメンバーでハワイに遠征したが、帰国が遅れ開幕日の3月31日に間に合わず4試合欠場したのだが、これは不可抗力というので公休扱いになり、連続出場の中断の憂き目をみずにすんだ。また、1954年にも手首に死球を受けて、代走だけで出場したケースが3試合ある(現在の公認野球規則では連続出場記録を継続するためには1打席を完了させるか、1イニングの初めから終わりまで守備につかなくてならず、代走だけの出場では記録は継続されないと規定されている)〔「日本プロ野球記録年鑑1983の709p」より〕。1959年に復帰するが徐々に精彩を欠き1961年にコーチ兼任となり〔堤哲『国鉄スワローズ1950-1964 400勝投手と愛すべき万年Bクラス球団』、交通新聞社、2010年、162頁〕、1963年に2000試合出場まであと35試合、2000本安打まであと22本という所で引退した。 引退試合は1965年3月27日の南海戦で(横浜公園平和野球場〔)、当時のオープン戦の観客数は2000人〔だったが飯田の引退試合には有料入場者が6000人を超え〔、フジテレビでも中継された〔。途中から一塁手として出場し勝ち越しの3塁打を放っている〔。引退試合でヒットを打っているのは国鉄では飯田のみである〔。 ちなみに、同年には1歳下の関口清治(当時阪急)や飯田同様1リーグ時代にプロ入りした田宮謙次郎(当時大毎)も引退しているため、この1963年を以て公表上における大正生まれの現役選手及び1リーグ時代からの在籍現役選手が球界からいなくなった(但し、前者については本来大正生まれの近鉄・関根潤三が現役を続行していたが、諸事情により公表上は昭和生まれとなっている。詳細はこちらを参照)。 温厚な性格で「仏の徳さん」〔「国鉄スワローズ1950-1964 400勝投手と愛すべき万年Bクラス球団」、160頁〕と呼ばれ親しまれた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「飯田徳治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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