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飯田 龍太(いいだ りゅうた、1920年(大正9年)7月10日 - 2007年(平成19年)2月25日)は、山梨県出身の俳人。飯田蛇笏の四男で、蛇笏を継ぎ俳誌「雲母」を主宰。戦後の俳壇において森澄雄とともに伝統俳句の中心的存在として活躍した。 == 経歴 == 山梨県東八代郡五成村小黒坂(旧境川村、現笛吹市境川町小黒坂)に生まれる。父・武治(蛇笏)、母・菊乃の四男。父の蛇笏は早稲田大学英文科を卒業後に境川の自宅(「山盧(さんろ)」)において農事のかたわら句作を行い、1930年(昭和5年)には排誌『雲母』の発行所を山盧に置いた〔『飯田龍太展』、p.76〕。龍太の産まれた1920年(大正9年)には境川でも電灯が灯り、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災では飯田家でも若干の被害が出ている〔。 龍太は幼少期には病弱で、祖母により育てられる〔。1927年(昭和2年)には境川尋常小学校(現在の笛吹市立境川小学校)へ入学し、1933年(昭和8年)に甲府市の旧制甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)に入学し、バス通学する〔。中学時代にはトルストイを読み〔、中学一年時には火災予防標語で入賞、四年時には帝国軍人後援会山梨県支会の標語募集に応募し、2点が入選している〔有泉貞夫 「俳人蛇笏・龍太と戦争(改稿)」『私の郷土史・日本近現代史拾遺』 110-112頁。〕。 1938年(昭和13年)に甲府中学を卒業するが、高等学校受験に失敗し、上京して予備校に通い、東京麹町三番街の次兄・数馬宅で浪人生活を送る〔。このころには神田の古書店街にも通い、文芸書に親しんだ〔。1940年(昭和15年)、教鞭をとっていた折口信夫に惹かれ、國學院大學文学部国文科に入学する〔。大学在学中より句作をはじめ、父・蛇笏の主宰する俳誌「雲母」の句会「青光会」に所属する。1941年(昭和16年)4月、右肺浸潤のため一時休学し帰郷する〔。同年6月には兄の数馬が病死している〔。翌年4月に復学するが、右肋骨にカリエスが発症したため、1943年2月にふたたび帰郷し手術。病気のため兵役免除となる。戦中から戦後間もなくまでは境川村で農業に専念、牛二頭を使って一町歩あまりの耕作地を耕した。また戦後間もない時期に馬鈴薯増産法の懸賞論文に応募し、農事試験場長や大学教授などを差し置いて一等を取っている〔飯田龍太・村上護 「わが俳句を語る」『俳句文庫 飯田龍太』13-14頁。〕。 この間、次兄が1942年病死、長兄がレイテ島で、三兄が外蒙古で戦死。1947年(昭和22年)、國學院大學を卒業、卒業論文は「芭蕉の悲劇性の展開」。7月に帰郷し「雲母」編集に携わる。1949年、第2回山梨県文学賞受賞。1951年より、山梨県立図書館に3年間勤務。この間、1952年に俳句作家として立つ決意を固める。また1953年には、講演のため山梨に来ていた井伏鱒二に会い、以後長きにわたって交友を深める(後述)。 1954年、第一句集『百戸の谿(たに)』を刊行。以後、生前あわせて十冊の序数句集を刊行する。1956年、第1回山日文学賞受賞。1957年、第6回現代俳句協会賞受賞。1960年、「雲母」に龍太選の「作品」欄創設。1962年(昭和37年)、父・蛇笏が死去し、300年続く大庄屋飯田家の家督を継ぐ。「雲母」主宰を継承、また毎日新聞俳句欄選者に就任。 1966年、蛇笏の遺句集『椿花集』を編集刊行。1969年、第4句集『忘音』で第20回読売文学賞受賞。1981年、日本芸術院賞恩寵賞受賞。1983年、紫綬褒章受章。1984年、日本芸術院会員。1976年より2004年まで蛇笏賞選考委員。郷土山梨での文芸活動にも携わり、やまなし文学賞や山梨県立文学館の創設、山梨日日新聞の文芸欄の選者などを務めた。1992年8月、「雲母」を900号をもって終刊。主宰自らの決断で伝統ある俳誌の幕引きを行ったことで俳壇に衝撃を与えた。この終刊以後、句の発表がなくなり事実上俳壇から退く。2007年(平成19年)2月25日、肺炎のため甲府市内の病院で死去。享年86。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「飯田龍太」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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