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飯盛 挺造 (いいもり ていぞう、ドクトル・フィロソフィー、1851年8月24日 - 1916年3月6日) は明治時代初期の日本の物理学者。1884年 (明治17年) 33才のときドイツのフライブルク大学に留学し、エミール・ワールブルク教授の指導のもとで反射光を利用する真空式微量天秤を考案し、ガラスその他の物質に吸着される水分の量を測定する研究をおこなった。その研究論文によりドクトル・フィロソフィーの称号を与えられた。また、その功績により「微量天秤の先駆者」と呼ばれている〔岩田重雄「微量天びんの先駆者、飯盛挺造」日本計量史学会誌 Vol.2, No.1, pp.25 - 36 (1980) 〕。帰朝後は物理学の教育に尽力をした。日本の放射化学の先達・飯盛里安の養父であり、日東十客の一人である。 ==経歴と業績== ===出生から東京大学まで=== 1851年(嘉永4年)8月24日肥前国多久邑 (現・佐賀県多久市) で生まれた〔『飯盛里安博士97年の生涯』中津川市鉱物博物館編集発行 p.3 (2003)〕。1869年 (明治2年) 頃、佐賀藩の藩医・池田玄泰からドイツ語の手ほどきを受け、1871年(明治4年)、20才のとき医師を志して上京し、外務省洋語学所に入学してドイツ語を学んだ。卒業後、1874年(明治7年)にドイツ語教員心得として東京外国語学校の雇となり、 翌1875年、東京医学校の雇となり、1877年(明治10年)同校は東京大学医学部と改称された際に助教となった。 当時の医学部は予備5年、予科3年、本科5年で、教授はほとんどドイツ人であった。その年の予備4級生、入沢達吉によれば予科でも理化学の初歩を教えており、飯盛は物理学を教えていたという。 この頃下山順一郎、丹波敬三と出会い終生の友となった〔。 1878年、羽生幸七の長女セイと結婚し新居を本郷菊坂町にかまえた。(後にすすめられて本郷弓町に転居)翌年、最初の研究「光線分極論」を東京薬学新誌に発表した〔 『東京薬学新誌』第4号、pp.4 - 8 (1879) 〕 〔 『東京薬学新誌』第5号、pp.14 - 15 (1879) 〕。またミュルレル原著を翻訳した『物理学』も1879年から1880年に出版された〔寺島柾史『日本科学史年表』霞カ関書房 p. 284 (1942) 〕〔 飯盛挺造纂譯、丹波敬三・柴田承桂校補『物理学』東京、島村利助、丸屋善七、1879 - 1880年、上編(444頁)、中編(563頁)、下編(468頁)〕。 『物理学』はその後20回以上改版し、唯一の和書の物理学教科書として医学、薬学関係の学生を中心に、1920年代まで広く使用された〔畑晋 (はたすすむ) 「飯盛里安先生の業績とその解説」化学史研究 No.1, p.27 (1986)〕。 1881年(明治14年)、下山順一郎、丹波敬三とともに東京大学医学部の助教授となったが志は医学から物理学へ移って行った。1882年飯盛は自費でフライブルク大学へ留学することになり1884年6月17日に留学を許可されている〔国立公文書館 公文録 明治17年 (1884年) 第197巻 No.30 官吏進退 (文部省) 東京大学助教授 飯盛挺造外一名欧州出張ノ件〕。森鴎外もこの日同様に留学許可となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「飯盛挺造」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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