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飯盛 里安(いいもり さとやす、1885年10月19日 - 1982年10月13日)は日本の分析化学者、理学博士。1917年9月創立間もない財団法人理化学研究所 (通称:理研) に入所し、主に放射性鉱物と希元素の研究を行う。1919年イギリスに留学し、オックスフォード大学のフレデリック・ソディ教授のもとで放射化学を学んだ。帰国後、日本では未開拓の分野だった放射化学を導入し基礎を築き確立させた功績、放射性鉱物の研究に生涯を捧げた科学者として「日本の放射化学の父」と呼ばれている。太平洋戦争中は、理研の仁科芳雄を中心に進められた原子爆弾開発研究 (二号研究) に加わり、ウラン鉱の探索・採掘・精製を行なった。戦後は人造宝石の研究を行い、ビクトリア・ストン、メタヒスイをはじめとする一連の人造宝石 (IL-stoneと総称) の発明者としても知られている〔「合成猫目石とメタヒスイ」化学と工業、Vol.13, No.4, pp.412 - 414 (1960)〕。 ==経歴== 1885年石川県金沢市生まれ。父は金沢藩士、加藤里衡(かとう さとひら)、母豊子の実家は金沢藩家老横山家の分家。父が高岡市の射水神社(いみずじんじゃ)の宮司であったので、少年時代を高岡市で過ごした。1898年10月富山県立高岡中学校 (現在の富山県立高岡高等学校) に入学した。一年後輩に正力松太郎と河合良成 (後に小松製作所会長となる)がいた。中学5年の時父が亡くなりその後同校を休学する。1903年5月に母と共に上京して早稲田中学に転学し1904年3月同校卒業後帰郷して同年9月第四高等学校 (旧制) に入学した。河合良成とは同期入学となり終生変わらない盟友となった。この年母方の叔父横山隆起(よこやま たかおき)の斡旋により飯盛挺造の養子となり、飯盛姓を名乗ることになった。第四高等学校では、台湾に烏山頭ダムを建設した八田與一とも同期であった〔金沢ふるさと偉人館 〕。 第四高等学校 (旧制) 卒業後東京帝国大学理科大学化学科に入学、1910年同校卒業後に挺造の次女ゆくと結婚した。1910年大学卒業後直ちに大学院に入り、垪和為昌(はが ためまさ)教授、同教授没後は池田菊苗教授の指導を受けた。大学院生の時に助手講師を兼任し、1915年9月第一高等学校 (旧制) 教授に就任、1916年2月大学院卒業と共に理学博士の学位を授与された。 1917年理化学研究所に招かれて所員となり、第一高等学校教授を辞任した。1919年11月から1921年10月まで2年間イギリスに留学し、帰国後研究員、翌年主任研究員となり、以後1952年理化学研究所〔1952年当時は株式会社科学研究所に改組されていた〕 を退任するまで理化学研究所飯盛研究室を主宰した。1952年8月1日科学研究所名誉研究員となり、1958年10月21日科学研究所は特殊法人理化学研究所に改組され、同所名誉研究員となった。理研在籍中の1931年4月 - 1932年3月には日本化学会会長を務めた。また、退任後の1953年5月 - 1954年4月には日本分析化学会会長を務めた。1961年4月には日本化学会名誉会員になった。退任後は東京巣鴨の自宅に設けた飯盛研究所で人造宝石の合成に専念した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「飯盛里安」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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