|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 飯 : [めし] 【名詞】 1. (sl) meals 2. food ・ 羽 : [わ, はね] 1. (n-suf) counter for birds 2. counter for rabbits ・ 間 : [けん, ま] 【名詞】 1. space 2. room 3. time 4. pause ・ 間遠 : [まどお] 1. (adj-na,n) at long distance 2. in long intervals ・ 遠 : [とお] 1. (adj-no) distant ・ 遠山 : [とおやま] (n) distant mountain ・ 山 : [やま] 【名詞】 1. (1) mountain 2. (2) pile 3. heap 4. (3) climax 5. critical point ・ 氏 : [うじ] 【名詞】 1. family name 2. lineage 3. birth
飯羽間遠山氏(いいばまとおやまし)は、美濃国恵那郡(岐阜県恵那市岩村町飯羽間)に拠った利仁流加藤氏の子孫・美濃遠山氏の一族。居城は飯羽間城(岩村城の出城)。のちに断絶した苗木遠山氏を継いでいる。 == 概要 == 文治元年(1185年)に源頼朝の重臣・加藤景廉(岩村城の創造者)が遠山荘地頭に赴任し、景廉の子の景朝は地名をとって遠山氏と改姓した。これが美濃国の遠山氏の祖である。 鎌倉時代以降、この遠山氏は、本家の岩村遠山氏以外にも遠山荘各地に分散し、居城ごとに分かれて「遠山七家」(岩村、苗木、明知、飯羽間、串原など)と呼ばれるようになった。このうち、飯羽間城に拠ったのが飯羽間遠山氏である。 分岐した年代や初代の飯羽間城主などは不詳。室町時代には既に分岐していたらしく、永享3年(1431年)の『永享以来御番帳』に遠山飯間宮内少輔がみえる。また長享元年(1487年)に足利義尚将軍が六角氏を討った時、美濃遠山勢として飯間孫三郎が従っている(「遠山氏族着到帳」)。 その後、飯場城(飯羽間城)主・遠山友勝のとき、苗木城主左近直廉に嗣子が無かったため、織田信長の命により友勝が直廉の養子となって苗木城に移り、飯場城は嫡子遠山友忠に譲った。 飯場城を継承した友忠だったが、庶長子の友信に飯場城を譲り、自身は友政らを連れて明照城(阿寺城、阿照城)に移り、友勝死後には明照城を次男友重に譲り、自らはさらに苗木城に移城した。友政は後に家康に仕え苗木藩を立藩し、江戸時代も飯羽間遠山氏の血筋は苗木遠山氏を継ぐ形で存続した。 一方で飯場城主・友信は、元亀元年(1570年)の上村合戦に参加した(『遠山譜』)。『寛政譜』は信長に逆心ありとして誅殺されてしまったと伝える。 『甲陽軍鑑』によれば天正2年(1574年)、武田勝頼の攻撃で飯羽間城は落城し、城将・飯羽間右衛門佐信次が生け捕りにされたとしている。この人物は織田信秀の五男で遠山氏に入った信次であるという説もある〔『遠山来由記』、『岩村町史』、『大日本野史』など。〕が、信次はほぼ同時期の長島一向一揆で亡くなったことになっており、『巖邑府誌』では、飯羽間右衛門佐はつまり城主遠山友信をさし、友信=信次=信友は同一人物で、写し間違いではないかとしている。 また『信長公記』では天正2年の武田侵攻時、飯羽間右衛門尉が明知城内で叛して城が落ちたと伝え、これを理由に天正10年(1582年)右衛門尉が坂井越中守に処刑されたとしている〔 〕。 いずれにても、この戦での落城によって飯羽間城は廃城となった。飯羽間遠山氏も断絶した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「飯羽間遠山氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|