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飯豊山神社(いいでさんじんじゃ)は、福島県喜多方市の飯豊山地主峰である飯豊山南峰(標高2,102m)にある神社である。麓の一ノ木地区中在家に麓宮があり、飯豊山頂の奥宮とともに、両宮が一体のものとされる。旧社格は県社。 == 歴史 == ;開創 :飯豊山地は、「山容飯を豊かに盛るが如き」と表現され、これが飯豊の語源になっている。飯豊山神社は、605年(白雉3年)、中国から渡来した僧知道と修験道の開祖役小角が飯豊山頂に登り、この山を飯豊と名付け、さらに飯豊山地を5神の王子に見立てて、一王子、二王子、三王子、四王子、五王子を飯豊山地の祭神として祭ったのが起源とされる。 :なお、上記の説のほかに、高僧である徳一、空海、行基に起源を求める説や永保年間(1081年 - 1084年)、後に山伏になった南海、知影の2人の猟師によって開かれたとの説もある。 ;中興 :1595年(文禄4年)、若松城主となった蒲生氏郷は、蓮華寺の僧宥明に命じて廃絶していた参詣道を整備させ、これ以降、麓宮がある一ノ木口が表参道とされ、蒲生氏に代わった松平氏の時代にも、会津守護として手厚く保護された。山の反対側である米沢藩においても手厚く保護され、上杉氏の治世下で大日杉(現・山形県西置賜郡飯豊町岩倉)に岩倉神社が建立され、代々の米沢藩主の奉納木札が残されている。 :一ノ木と大日杉は、江戸期においては会津と米沢を結ぶ街道の藩境に位置し、飯豊山参拝の拠点とともに宿場としても栄えた。 ;信仰 :飯豊山信仰は土俗的な信仰であり、飯豊山地それ自体を神体として崇拝する。すなわち、飯豊山地は、越後、会津、出羽の3国の境に聳え立ち、3国を見下ろす。飯豊山から生まれた水は、阿賀野川、荒川、最上川へとなり、山野に恵みをもたらす。また、飯豊山地の周辺では、死者は天空へと上り、先祖は高所である飯豊山から見守っていると信じられており、それらが相まって、飯豊山信仰へとつながった。飯豊山への参詣は、近隣の住民にとって、大人になるための通過儀礼であり、男子が13〜15歳になると飯豊山に登るのがしきたりになっていた。 ;県境 :明治時代になると、廃藩置県が実施され、それまで会津の一部であった東蒲原郡が福島県から切り離され、奥宮は新潟県東蒲原郡実川村(現・阿賀町)に編入されることとなったが、これに麓宮のある耶麻郡一ノ木村(現・喜多方市)が反発、「飯豊山神社は、奥宮と麓宮で一宮である」として一ノ木村の一部であるとした。結局、内務省裁定により飯豊山までの参詣道は一ノ木村の土地となった。現在の、いびつな形の福島・新潟・山形県境はこれに由来する。 :地形上の3県境がある三国岳付近から飯豊山を経て御西岳の西にある御西小屋付近に至る約7.5キロメートルの登山道と飯豊山頂の神社境内地が福島県である。うち、三国岳から御秘所(おひそ)、御前坂に至る約4キロメートルについては、幅約91センチメートル(3尺)であり、飯豊山頂と飯豊山神社付近は最大300メートルほどの幅がある〔浅井建爾『知らなかった! 驚いた! 日本全国「県境」の謎 』、実業之日本社、2007年9月〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「飯豊山神社」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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