|
養珠院(ようじゅいん、天正8年(1580年) - 承応2年8月22日(1653年10月13日))は、徳川家康の側室。徳川頼宣・徳川頼房の母。名は万(まん、旧字体:萬)。実父は勝浦城主正木頼忠。義父は蔭山長門守氏広。実兄は紀州藩(紀州徳川家)家老の三浦為春。 以下の呼称は実名の万で統一する。 == 生涯 == 母は北条氏隆(氏尭の誤伝か)の娘とも北条氏尭娘、あるいは田中泰行娘(=北条氏尭養女、板部岡江雪斎姉の娘・姪)と諸説ある。 実父の頼忠は上総勝浦城の正木氏の正木時忠の次男で、当初は小田原に人質として滞在していたが、万の同母兄である為春と万をもうけた後、急死した実兄の正木時通の後を継ぐため上総に戻ることになる。万と為春の生母は北条氏家臣だった蔭山氏広と再婚した。万はこの義父の元で育てられることになる。 伊豆で成長した万は16,7歳の頃、家康に見初められ側室となった。万は慶長7年(1602年)の3月に長福丸(後の徳川頼宣)を、さらに翌年の8月には鶴千代(後の徳川頼房)を生んだ。慶長8年(1603年)には、長福丸には常陸国水戸20万石が与えられた。慶長6年(1606年)には、鶴千代に下総国下妻10万石が与えられた。慶長14年(1609年)には、長福丸は駿河国・遠江国50万石に、鶴千代は水戸25万石に移封された。後に頼宣は紀州徳川家初代藩主に、頼房は水戸徳川家初代藩主になった。 義父の蔭山家は、代々日蓮宗を信仰しており、万もその影響を受け、日遠に帰依した。家康は浄土宗であり、日頃から宗論を挑む日遠を不快に思っていた為、江戸城での問答の直前に日蓮宗側の論者を家臣に襲わせた結果、日蓮宗側は半死半生の状態となり、浄土宗側を勝利させてしまった。この不法な家康のやり方に怒った日遠は身延山法主を辞し、家康が禁止した宗論を上申した。これに激怒した家康は、日遠を捕まえて駿府の安倍川原で磔にしようとしたため、万は家康に日遠の助命嘆願をするが、家康は聞き入れなかった。すると万は「師の日遠が死ぬ時は自分も死ぬ」と、日遠と自分の2枚の死に衣を縫う。これには家康も驚いて日遠を放免した。 この万の勇気は当時かなりの話題になったようで、後陽成天皇も万の行動に感激し、万は天皇が自ら「南無妙法蓮華経」と七文字書いた物を賜ったという。彼女は家康の死去した後、元和5年(1619年)の8月、身延山で法華経一万部読誦の大法要を催し、満願の日に七面山に向かった。1653年(承応2年)万は死去。 墓所は山梨県南巨摩郡身延町大野の日蓮宗寺院・本遠寺。承応3年(1654)年に徳川頼宣により建立された墓所で、花崗岩製の宝篋印塔が現存している。山梨県指定史跡。戒名は養珠院殿妙紹日心大姉。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「養珠院」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|