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養神亭(ようしんてい)は、かつて神奈川県逗子市新宿に存在した旅館である。不如帰の執筆宿として知られる。1984年に廃業し建築物は現存していない。庭園だけで千坪余りあったという〔吉田(1978)p.34〕。 養神亭の「神」は精神の「神」で、すなわち心を養うという意味である〔吉田(1978)p.7〕。 == 概要 == かねてより逗子海岸が海水浴場として最良であると主張し〔神奈川県ホームページ-観光-逗子の邸宅遺産 〕、逗子の保養地としての開発に熱心であった元海軍軍医大監で帝国生命取締役の矢野義徹の出資で、1889年(明治22年)10月22日、蒼龍丸司厨長であった丸富次郎が逗子初の近代旅館「養神亭」を創業した〔吉田(1978)p.5〕。 丸富次郎は、1851年(嘉永3年)5月25日〔吉田(1978)p.6〕に千葉県君津郡大貫村で生まれ、1882年から1883年に蒼龍丸に乗り込んだのち退職し、逗子海浜に養神亭を開業するに至った。 ただし富次郎は旅館創業以前から同地で茶店ないしは休憩所を営んでいたようで、それより海側にあった貸別荘を買い取り、廊下でつないで宿屋として営業を始めたのが前述の1889年であろうとホテル養神亭社長・吉田勝義は推測している。この別荘はのちに取り壊され、富次郎没後の1909年12月8日その跡地に百畳敷の大広間宴会場が建設された。 富次郎は1906年6月1日に57歳で没し、養神亭の経営は長男の丸儀太郎に引き継がれたと思われる。儀太郎は、飯塚竹次・梶田幸次郎の協力を得て養神亭を合資会社の法人に変更したが経営は芳しくなく〔吉田(1978)p.43〕、1920年11月、湘南ホテルに養神亭を売却した。湘南ホテルの直営による経営も芳しくなく、ほどなく桜山に別荘を所有していた代議士・松島肇に売却されることとなる。以後50年近くにわたり松島が養神亭を個人資産として所有することとなる。 葉山御用邸における大正天皇の療養そして崩御の時期に際しては当時の若槻内閣の宿泊に使用されたこともあり(後述)〔吉田(1978)p.22〕〔逗子市誌(1955)p.73〕、高級旅館として名を馳せ、名刺あるいは紹介がなければ宿泊ができない存在となっていたという〔吉田(1978)p.24〕。 日中戦争頃からは軍関係者の宿泊が増えた。特に海兵団の入団兵の宿泊・面会に使用され、戦時中は、さながら軍宿舎のような様相を呈した〔吉田(1978)p.59〕。戦後は主な客層であった富裕層の没落で経営方針を転換し、大学受験生や修学旅行生(主に栃木・群馬地方)をターゲットとした団体宿となった〔吉田(1978)p.56〕。戦前戦後を通じての顧客に東京雙葉学園等があった。 1969年2月7日に松島が88歳で死去すると、1973年7月11日に吉田勝義を代表取締役として株式会社ホテル養神亭が設立された。1984年に廃業し、養神亭の存在した場所の一角は渚マリーナやマンションとなっている。 養神亭の付近には、徳冨蘆花が執筆に使った柳屋や蘆花の両親と兄の蘇峰が暮らした老龍庵、永井荷風が病気の療養に滞在した十七松荘が存在した。 ちなみに養神亭跡地の近くに架かっている富士見橋の初代は富次郎ら養神亭によって1894年6月に架けられたもの〔森谷(2002)p.89〕であった。2代目の富士見橋は1906年5月30日に架けられた。のちの関東大震災の際には津波で流され、松島の別荘の玄関に打ち揚げられた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「養神亭」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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