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舘 残翁(たち ざんおう、1867年(慶応3年)7月21日 - 1947年(昭和22年)9月12日)は、日本の歴史学者。 旧加賀藩石川郡野々市村(現石川県野々市市本町)の商家の長男として生まれた。家業は破綻するが、窮状にありながら冨樫氏と、冨樫氏が開山して庇護した大乗寺の研究に生涯を捧げた。 大乗寺に保管されていた遺稿が、関係者によって「加賀大乗寺史」、「冨樫氏と加賀一向一揆史料」として出版されている。 == 生涯 == 舘家は、現在の野々市市本町を南北に走る石川県道179号野々市鶴来線(旧白山大道(はくさんおおみち):大野街道とも呼ばれ、現野々市市を経て、現白山市白山町と現金沢市金石を結んだ道)と、 東西に走る旧北陸道とが交わる交差点(現本町交差点)の横(現野々市市本町3丁目)にあった。野々市村では人の往来も物流も最も盛んな位置にあって、江戸時代から続く味噌醤油を商う商家であり、明治期には造り酒屋を営むほど勢いがあり、300石余の田地を持つ有力地主でもあった。 舘残翁は、先代八平の長男として生まれ、下に弟一人、妹二人がいた。本名は八平、幼名は幸太郎といい、母は、野々市村の水毛生伊余門(伊右衛門)の長女恵津であった。 水毛生家は、先祖が冨樫氏の家臣で、慶長年間には加賀藩の肝煎にも任ぜられている旧家であり、代々の当主は伊余門(伊右衛門)を名乗っている〔野々市町史集落編、平成16年3月〕。 幸太郎の最終学歴は尋常高等小学校であるが、幼い頃から才知に優れて学業成績が良く、性格は温厚だったが、独学によって知識と教養を高めようとする気鋭を持ち合わせていた。 人前に出て目立つことを嫌ったため、公職などには一切就こうとしなかった。明治22年(1889年)、金沢市金石の岡田太四郎の次女冨と結婚し、一男4女が誕生している。 明治23年(1890年)の野々市大火で家屋や酒蔵を焼失した後は資金繰りが難しくなり、事業も思わしくない状態が続いた。 昭和5年(1930年)に発生した昭和恐慌によって、ついに倒産に至り、住宅店舗の一切を失い、金沢市胡桃町(現金沢市兼六元町)で借家住まいを始めることになる。 残翁を雅号としたのはこの頃からで、あたかも過去を振り切って決絶するかのように、冨樫氏と大乗寺の研究に没頭し、新聞・雑誌への研究成果寄稿も開始するようになった。 戦時下にあっても図書館通いを続け、長男の住む東京への逗留によって東京大学や尊経閣文庫の資料閲覧を行うなど、研究の手を休めることはなかった。 昭和22年(1947年)に80歳の生涯を閉じ、野々市の舘家代々の墓に葬られた。大乗寺には、残翁の記念碑が建てられている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「舘残翁」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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