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松前藩(まつまえはん)は、渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。後に城主となり同所に松前福山城を築く。居城の名から福山藩とも呼ばれる。慶応4年、居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称した。家格は外様大名の1万石格、幕末に3万石格となった。 江戸時代初期の領地は、現在の北海道南西部。渡島半島の和人地に限られた。残る北海道にあたる蝦夷地は日本の国外であったが、しだいに松前藩が支配を強めて藩領化した。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった〔海保嶺夫『幕藩制国家と北海道』、三一書房、1978年、14-15頁。〕。江戸時代後期からはしばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた。 == 藩史 == === 17世紀まで === 松前藩の史書『新羅之記録』によると、始祖は室町時代の武田信広(甲斐源氏・若狭武田氏の子孫とされる)である。信広は安東政季より上国守護に任ぜられた蠣崎季繁の後継者となり蠣崎氏を名乗り、現在の渡島半島の南部に地位を築いたという。蠣崎季広の時には、主家安東舜季の主導のもとアイヌの首長である東地のチコモタイン及び西地のハシタインと和睦し(夷狄の商舶往還の法度)〔海保嶺夫 『エゾの歴史』 講談社、1996年、ISBN 4062580691〕、蝦夷地支配の基礎を固め、その子である松前慶広の時代に豊臣秀吉に直接臣従することで安東氏の支配を離れ、慶長4年(1599年)に徳川家康に服して蝦夷地に対する支配権を認められた。江戸初期には蝦夷島主として客臣扱いであったが、5代将軍徳川綱吉の頃に交代寄合に列して旗本待遇になる。さらに、享保4年(1719年)より1万石格の柳間詰めの大名となった。 当時の北海道では稲作が不可能だったため、松前藩は無高の大名であり、1万石とは後に定められた格に過ぎなかった。慶長9年(1604年)に家康から松前慶広に発給された黒印状は、松前藩に蝦夷(アイヌ)に対する交易独占権を認めていた。蝦夷地には藩主自ら交易船を送り、家臣に対する知行も、蝦夷地に商場(あきないば)を割り当てて、そこに交易船を送る権利を認めるという形でなされた。松前藩は、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として、蝦夷地と和人地の間の通交を制限する政策をとった。江戸時代のはじめまでは、アイヌが和人地や本州に出かけて交易することが普通に行なわれていたが、次第に取り締まりが厳しくなった。 松前藩の直接支配の地である和人地の中心産業は漁業であったが、ニシンが不漁になったため蝦夷地への出稼ぎが広まった。城下町の松前は天保4年(1833年)までに人口1万人を超える都市となり、繁栄した。 藩の直接統治が及ばない蝦夷地では、寛文9年(1669年)にシャクシャインの戦いに勝って西蝦夷地のアイヌの政治統合の動きを挫折させた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「松前藩」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Matsumae clan 」があります。 スポンサード リンク
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