|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 島 : [しま] 【名詞】 1. island ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana) ・ 御 : [ご, お, おん, み] 1. (pref) honourable 2. honorable ・ 園 : [その] 1. (n,n-suf) garden (esp. man-made) 2. park 3. plantation ・ セブン : [せぶん] 【名詞】 1. seven 2. (n) seven
香島ラッキー・御園セブン(かしまラッキー・みそのセブン)は、日本の漫才コンビである。1930年(1929年とも)頃コンビ結成。 == 概要・芸風 == *当時ではリーガル千太・万吉等共に数少ない東京(江戸)弁を話す漫才コンビ。 *ラッキーは最初は薩摩琵琶錦心流の永田錦心の弟子で永田紫水といった。後に田宮貞楽の喜劇一座で芝居を経験。後に漫才に転身。 *セブンは香島セブン、矢代セブン、ヤシロセブン等名乗る。 *コンビ結成以来吉本興業の東京吉本の若手として売り出される。1938年11月にはわらわし隊の一員として中国戦線へ慰問を行う。 *1939年には新興キネマ演芸部に引き抜かれる。同じく東京からは隆の家栄竜・万竜、桜川ぴん助・美代鶴等が参加。 *戦時中は敵性語の使用禁止で「香島楽貴・矢代世文」と名乗らされる。(当時候補に「ラッキョ・センブリ」という候補があった。) *戦後は漫才作家の秋田實に誘われ、1951年より宝塚新芸座に参加。 *しばらくしてコンビ解消(解消後も何度かコンビを組んだ)。ラッキーは香川アンナ、高島ホープ、鹿島洋々等とコンビを変え、1964年から異色のベテランコンビ東五九童と組むも1年ほどで解消。漫才を辞め、司会業をした後完全引退。引退後は京都でキャバレーの支配人をしたという。〔「上方芸人ばなし」山川静夫〕また1978年1月に島ひろしの取材インタビューで3、4年前に亡くなったと証言している。 *セブンは宝塚新芸座で弘世東作の名で芝居・映画で活躍。その後観光会社に就いた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「香島ラッキー・御園セブン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|