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香港の教育史(ホンコンのきょういくし)は、宋代の史料にまで遡ることができる。イギリスが香港の割譲を受けた当初、植民地政府・香港政庁は教育政策の実施に積極的でなく、その教育政策は植民地官僚の育成に重点を置き、イギリスの国威発揚に主眼を置くものであった。第二次世界大戦後香港の人口は急速に増加し、それにつれて教育の整備を求める声が高まった。香港政庁は国際顧問による教育問題の研究を通し、義務教育制度へと移行していった。香港返還後、香港特別行政区政府は教育制度改革に着手し、現在その方法をめぐり議論が続いている。 == イギリス領以前 == 記録に残る香港最初の教育機関は錦田の力瀛書院であり、現在の広東省内の同規模の書院より早い時期に成立している。この書院は北宋の進士鄧符協が1075年に建てたものであり、清代の『新安県志』に「桂角山(今錦田)在県東南四十里,宋代鄧符協築力瀛書院,講学於其下,今基址尚存。」と記録されている。鄧符協は講義を行う以外に、広東省の文士と交流を深め、また経典を収めた書室を建てていた。 清初、香港は広州府新安県に帰属していた。域内の屏山、錦田、上水、龍躍頭等の地域では子弟教育に熱心な地域であり、科挙へ積極的に参加していた。彼らは地域に書室や学社、各氏族の宗廟、家塾などを設け、子弟の功名牌匾をかけて科挙合格を記念するなど積極的な教育が行われていた。 書院、書室の多くは新界に設けられ、現在も当時の面影を残すものとして錦田水頭村の周王二公書院(いま、周王二院奨学金があり)、二帝書院、屏山坑尾村の覲廷書室、粉嶺の善述書室、大埔泰郷の善慶書室等が挙げられる。また家塾として用いられた祠堂としては新田の麟峰文公祠、八郷の梁氏宗祠と郭氏宗祠、元朗廈村の鄧氏宗祠、上水の廖萬石堂、応龍廖公家塾と応鳳廖公家塾等がある。 また香港島では住民の多くが漁民と商人であり、大規模な学舎の建設が行われ、イギリスに割譲される1841年以前、全島に5箇所の私塾が設けられていた。これらの私塾では1人の教師に多くの学生が師事する方式での教育が行われており、教師は直接学生から脩金と称する学費を徴収していた。講義の内容は中国の伝統的な経典であった。その後1843年までに香港島の赤柱、石排湾、黄泥涌、香港仔等に8~10箇所の私塾が開かれている。 香港の書院、書室は中国古代の教育制度により設立されたものであり、私塾の一部をなしていた。これら私塾を開いた者は三種類に分類され、一つ目が裕福な家庭が招聘した家庭教師であり、家塾と称されるもの、二つ目が教師が自宅で教育を行った塾館や教館と称されるもの、三番目が地方の氏族が開いた私塾や義塾と称されるものである。講義内容は初級と高級の二段階であり、初級課程では児童に文字と啓蒙教育を行うものであり、テキストとしては『三字経』、『百家姓』、『千字文』などが、高級課程では『四書五経』が用いられ、科挙対策として八股文が学ばれた。 その後時代の変遷とともに、これら書院や私塾は次第に郷村学校あるいは公立学校へと変遷していく。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「香港の教育史」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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