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馬 君武(ば くんぶ)は中華民国の政治家・教育家・工学者。中国同盟会に属した革命派人士。北京政府で要職に就き、国民政府時代には、新広西派の一員と目された。旧名は道凝、後に和と改名したが、一般には字の君武で知られる。字は他に厚山。祖籍は湖北省武昌府蒲圻県(現在の黄岡市赤壁市)。 == 事績 == === 中国同盟会での活動 === 地方官吏の家庭に生まれる。1899年(光緒25年)に広西体用学堂に入学した。翌年、広州へ向かい、フランスの教会が運営する丕崇学院でフランス語を学んだ。 同年7月、シンガポールへ渡り、康有為と会見する機会を得て、変法運動に加わる。後に帰国して、唐才常の自立軍に加わったが、敗北して上海に逃れる。そこで震旦学院で引き続きフランス語を学び、ジュール・ミシュレの『フランス革命史』を翻訳した。 1901年(光緒27年)冬、日本へ渡り、梁啓超と対面したほか、宮崎民蔵・寅蔵(滔天)兄弟とも知り合っている。その翌年には、民蔵の紹介により、孫文(孫中山)とも会った。これ以降、馬君武は、革命派の路線を進むようになり、馮自由・劉成禺らとともに革命宣伝に努めるようになる。1903年(光緒29年)秋、京都帝国大学で工芸科学を学ぶ。1905年(光緒31年)の中国同盟会結成に際しては、黄興・陳天華らとともに章程の作成に携わり、結成後は執行部書記となっている。 翌年夏、馬君武は大学を卒業して帰国し、上海の中国公学で総教習兼理化教授となった。まもなく、両江総督端方から指名手配されるようになったため、ドイツへ留学する。ベルリン工芸大学で冶金を学び、工学士として卒業した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「馬君武」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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