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小松 済治(こまつ せいじ、1848年(嘉永元年11月〔*>『海を越えた日本人名辞典』、『明治過去帳』では弘化4年。〕) - 1893年(明治26年)5月12日は、幕末期の会津藩が派遣したドイツ留学生で、明治維新後は紀州藩藩士を経て岩倉使節団随員、司法省民事局長〔(画像2枚目)〕等を歴任した。旧名馬島済治。 ==生涯== ===明治維新前=== 祖父馬島瑞延、父馬島瑞謙は会津藩に仕えた医師であった。瑞延は馬島流眼科を学んで馬島姓を称したが、元来は小松姓であったと推測される〔『近代日独交渉史研究序説』32頁〕〔*>『日下義雄伝』では馬島瑞延は紀州出身で、会津藩に出仕するに際し、小松から馬島に改姓している。〕。小松〔*>維新前は馬島姓であるが、煩雑を避け「小松」で統一して記述する。〕は馬島家の長男として江戸〔*>出生地については、母安藤氏の実家がある郡山などの説もあるが、小松自身が江戸を出生地として学籍登録している。〕に出生し、日新館で南摩綱紀、山本覚馬、川崎尚之助らに学んだ〔『近代日独交渉史研究序説』35-36頁〕。18歳で長崎へ遊学し、精得館で初歩的な近代医学を、またカール・レーマンからドイツ語を学んでいるが、小松の長崎遊学には蛤御門の変の影響がある。会津藩方の死傷の原因はほとんどが銃砲弾によるもので、従来の治療法は功を奏さず、藩は小松に蘭方医学の習得を命じたのである〔『近代日独交渉史研究序説』37-38頁〕。次いでドイツ留学を命じられるが、会津藩が小松を留学生とした経緯は明確ではない〔*>幕末期の会津藩士には脱藩覚悟の出国を目指した小出光照、イギリス留学を藩に働きかけていた栃木辰次郎など、外国留学を目指す人物がいた。〕。小松はレーマンに伴われドイツへ赴く。レーマンは会津藩家老田中玄清との間で造船所や鉄砲工場建設の協議を行っていた人物で〔『近代日独交渉史研究序説』107頁〕、紀州藩、会津藩から発注〔*>紀州藩3000挺、会津藩1300挺の後装銃である。レーマンは撃針歩兵銃などを購入し、明治維新後の紀州藩に強力な軍事力をもたらした。〕を受けた小銃の買付を行うためドイツに一時帰国したのである。小松はハイデルベルク大学で1868年10月21日〔『近代日独交渉史研究序説』24頁〕に学籍登録して医学を学び、翌年の夏学期まで登録がある。小松はドイツの大学に学籍登録された最初の日本人である〔*>従来は赤星研造とされていたが、赤星の在籍は1870年からである。〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「小松済治」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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