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馬 成(ば せい、? - 56年)は後漢の武将。字は君遷(くんせん)、南陽棘陽(河南省新野県)の人(『後漢書』列伝12・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第17位に序せられる(『後漢書』列伝12)。 == 略歴 == 若くして県吏となる。劉秀が穎川を掌握すると馬成を安集掾とし、郟県の令代行に移した。劉秀が更始帝に命じられて河北の調略に及ぶと、官を棄て荷を背負い徒歩にて、これに合流し期門(警備兵)として従軍した。 建武1年(25年)、劉秀が即位すると護軍都尉に移った。 建武4年(28年)、揚武将軍を拝命し、誅虜将軍・劉隆、振威将軍・宋登、射声校尉・王賞を率い、会稽・丹陽・九江・六安の四郡の兵を徴発して淮南の李憲を討った。馬成は李憲を舒において包囲し、諸軍に壕・防塁を設けさせ、李憲が挑んでも防壁を固めて出ず、1年余り陣を守った。 建武6年(30年)春、舒城の食糧が尽きたので馬成はこれを攻めて李憲を斬り、その残党を追撃して長江・淮水流域を平定した。 建武7年(31年)、平舒侯に封ぜられた。 建武8年(32年)、劉秀の親征に従って、当時の群雄の1人、天水の隗囂を破る。天水太守となり、将軍職は元の通りであった。のち洛陽に召還された。 建武11年(35年)、来歙に代わって中郎将を代行し、武威将軍・劉尚らを率いて河西を平らげた。 建武12年(36年)12月、大司空・李通の辞職により大司空を代行した。数ヶ月後、再び揚武将軍を拝命した〔『後漢書』の馬成伝では中郎将代行は建武9年(33年)年の事とされるが本紀・来歙伝の記述と合わない。馬成伝で建武9年の明年に大司空を代行と記載されるが、本紀・李通伝において李通の辞職が建武12年であれば、先の建武9年は建武11年の誤りである。よって本文は正しい年号を記載した(銭大昕の指摘)。〕。 建武14年(38年)、常山・中山に駐屯して北方を守備した。 建武15年(39年)に建義大将軍・朱祜が入朝すると、その兵の指揮権を引き継いだ。この年、弾劾されて官を免ぜられた驃騎大将軍・杜茂に代わり障塞の修復を指揮した。西河(オルドス・ジュンガル旗)から渭橋(咸陽近郊)に至り、河上(左馮翊。関中の東北部)から安邑(河東郡)に至り、太原から井陘に至り、中山から鄴に至り、それぞれ保壁・狼煙台を築造し、十里(約4km)毎に物見櫓を設置した。 北辺の守備に従事して5、6年、劉秀は馬成の勤勉さを労らって洛陽に召還した。しかし、北辺の人々で上書して馬成の復帰を請う者が多く、馬成はまた派遣された。南単于が北辺の守備を担当するに至り〔本稿は『後漢書』馬成伝に基づいて作成したが、光武帝紀によれば匈奴の薁鞬日逐王が漢の北辺守備を担当する旨漢朝に申し出たのは建武24年正月、匈奴が南北分裂して薁鞬日逐王が南単于となったのは同年10月のことである。〕、馬成は中山太守を拝命して将軍の印綬を返上したが、屯兵の指揮権は元の通りであった。 建武24年(48年)、武谿(湖南省・辰州)の蛮族を討つが功無く、太守の印綬を返上した。 建武27年(51年)、全椒侯に封ぜられ、就国した。 建武32年(56年)、逝去した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「馬成」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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