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馬相の乱(ばそうのらん)は、後漢時代に起きた益州での反乱。反乱自体はすぐに平定されたが、その後に赴任した益州牧の劉焉は益州での自立を目指し行動し、騒動は馬相らの滅亡後も続いた。 == 概要 == === 馬相の乱と劉焉の益州入り === 184年に起こった黄巾の乱は、首領の張角の病死により急速に勢力を失って平定されたが、黄巾の残党による跳梁はその後も続き、并州刺史の張懿が郭太に殺害されるなど深刻化していた。 益州では、当時の益州刺史の郤倹(郤正の祖父)は重税を取立て、怨嗟の声が上がっていた。そこで郤倹は朝廷の命で逮捕・更迭されることになり、劉焉が派遣されることになった。しかし、その前に益州でも黄巾軍の残党と称する賊が蜂起し、馬相と趙祇らは郤倹を殺害して雒城を落とした。馬相らはさらに綿竹・蜀郡・建為の3郡で騒動を起こして略奪を繰り返していた。馬相は巴郡太守も殺害し、天子を自称するまでになったが、益州従事の賈龍によって殺害された。 漢の皇族の1人である劉焉は益州出身の学者の董扶より「益州に天子の気がある」との進言を受けていた。それを信じた劉焉は、皇帝の霊帝に対して、「清廉な重臣を選んで、軍権を持つ州牧に任じるべき」と建議して認められ、188年に郤倹の更迭(実際には既に馬相らに殺害されていた)を受け、益州牧に任命された。劉焉は賈龍らに迎えられ、益州入りした。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「馬相の乱」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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