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馬越 恭平(まこし きょうへい、1844年11月21日(天保15年10月12日) - 1933年(昭和8年)4月20日)は、日本の実業家。三井物産に勤務し、大日本麦酒(日本麦酒、朝日麦酒、札幌麦酒の合併会社)の社長を務めた人物。大日本麦酒の大合同合併を画策し、「日本のビール王」とよばれた。衆議院議員(1期)、貴族院勅選議員。茶人・馬越化生としても知られた。 == 経歴 == 備中国後月郡木之子村(現・岡山県井原市)の医家に生まれる。興譲館にて阪谷朗廬に学ぶ。 1856年(安政3年)、大阪に出て頼山陽の弟子後藤松陰の門下を経て、1859年(安政6年)、その当時の豪商、鴻池家の丁稚となった〔時事新報 1916.3.29-1916.10.6(大正5)、神戸大学新聞記事文庫〕。1873年(明治6年)、上京して井上馨の先収会社に入社。1876年(明治9年)先収社解散後、その事業を引き継いだ三井物産に入社。三井物産横浜支店長、帝国商業銀行頭取を経て、1896年日本工業倶楽部会長にも就任。 日本麦酒との関係は、これより先の1892年(明治25年)、経営困難に陥っていた同社へ、三井物産から派遣され委員(重役)に就任したことが発端である。その後、日本麦酒の経営が多忙となり、1896年(明治29年)1月11日、三井物産を退職し、ビール会社経営に集中する。。1900年(明治33年)頃には銀座にビアホールを開店するなど、新しいアイデアで経営の再建を進めた。 1898年(明治31年)、第5回総選挙に立候補して当選、岡山県選出の衆議院議員となる。1904年(明治37年)には勲四等に叙せられた。 合併前の厳しい市場競争で日本麦酒の経営危機が改善せず、渋沢栄一及び当時の内閣に働きかけ「国内の過当競争排除と輸出の促進、 資本の集中化を図るための」合併勧告を引き出した。1906年(明治39年)、日本麦酒、札幌麦酒、大阪麦酒の3社を合併し、大日本麦酒株式会社が設立されると社長に就任した。その後、大日本麦酒は市場占有率を79%までに高め、馬越恭平は「日本のビール王」と呼ばれた。 また鉄道業にも多く関与し中国鉄道取締役、豊川鉄道取締役会長、井原笠岡軽便鉄道社長、金剛山電気鉄道社長をつとめた。 1924年(大正13年)、貴族院勅選議員となり、研究会に所属した。1933年(昭和8年)、大日本麦酒が日本麦酒鉱泉と合併交渉を行っている期間に死亡した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「馬越恭平」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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