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馬関田 右衛門佐(まんがた うえもんのすけ、生没年不詳)は戦国時代から安土桃山時代にかけての日向国北原氏庶流。右衛門尉とも。諱は不明。馬関田城主。 北原氏6代久兼の弟が興した分家の子孫で、真幸院西北端の馬関田地頭であった。ところが、永禄元年(1558年)に北原氏13代兼守が急死し、更に兼守の叔父北原兼孝の嫡子に娶せるはずであった兼守の娘も急死すると、家督問題が発生する。兼守の正室である麻生が伊東義祐の娘であったことから、伊東氏がこの問題に介入、右衛門佐に麻生を再嫁させ北原家を継がせんと謀った。 永禄2年(1559年)、義祐はこれに異を唱える者らを粛清、右衛門佐と麻生の婚姻を断行し北原家を事実上乗っ取ると、右衛門佐を北原本拠である三ツ山城へと置いた。ところが、反対派の一人白坂下総介が北原再興を画策し、島津貴久・北郷時久・相良義陽がこれに協力したことにより、北原旧領は奪い返され、右衛門佐も三ツ山城から退去する。しかし、再興された北原家は出奔する者が相次ぎ、三ツ山城は再び伊東氏に帰する。ただし『日向記』は、それ以後の三ツ山城主を北原旧臣である平良彦十郎(平良兼賢)としていることから、右衛門佐は三ツ山城へは戻っていないものと見られる。 その後、伊東氏は元亀3年(1572年)の木崎原の戦いを契機に衰退、天正5年(1577年)12月、義祐は豊後国の大友氏を頼って日向国を落ち延びる(伊東崩れ)。右衛門佐はこれに同行しているが、以後の消息は不明である。 ==参考文献== *『えびの市史 上巻』(えびの市郷土史編さん委員会編) *『日向記』(宮崎県史 叢書) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「馬関田右衛門佐」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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