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馮佐周(ひょうさしゅう、?-1241年)は、李朝末期・陳朝初期のベトナムの政治家。 == 経歴 == 1210年に李朝の内殿直として、恵宗の皇后に陳氏(陳承・嗣慶兄弟の妹)を擁立するために奔走し、以後も陳承・嗣慶及びその従兄弟の陳守度と結んで活動する。恵宗の娘・佛金を陳煚(陳承の次男、後の陳朝の太宗)に嫁がせて陳煚に皇位を継がせるという簒奪計画の実現に奔走した〔『大越史略』によれば、恵宗が陳氏への禅譲を考えた時にこれを謀ったとされ、『大越史記全書』では陳氏のために謀ったとされる。『大越史記全書』の編者呉士連は馮佐周を「李朝の罪人」と断じている。〕。このため、陳朝成立後、宰相格である輔国太傅に任じられて権知乂安府(乂安府の長官)を兼ね、現地にて一定の爵位を授ける特権を与えられる。更に1234年には興仁王に封じられ、更に1236年には興仁大王、1239年には入内太傅に任じられ、同年には陳氏の故郷である即墨郷に設置された宮殿造営の責任者となるなど、要職の多くを宗室が占めた陳朝にあって、陳守度・陳柳(陳承の長男・太宗の兄)に次ぐ地位を占めた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「馮佐周」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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