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馮 司直(ふう しちょく)は中華民国の政治家・教育者。閻錫山率いる山西派の要人。後に南京国民政府(汪兆銘政権)に参加した。字は振邦。号は天放。 == 事績 == === 山西省の教育者として === 1903年(光緒29年)、癸卯科挙人となり、後に山西大学堂で学ぶ。翌1904年(光緒30年)秋、日本に留学して、明治大学政治科で学んだ。1907年(光緒33年)に帰国し、平定中学校長、平定教育会会長、平定勧学所所長、平定州議会議長などを歴任した。 1917年(民国6年)、閻錫山配下として、山西督軍公署秘書に任ぜられた。以後、督軍公署参事、山西省公署教育科科長を歴任する。1918年(民国7年)に山西省教育会会長、1919年(民国8年)に第5次全国教育連合会主席、1925年(民国14年)に中華教育改進社〔徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』2048頁による。『平定県志』637頁は、「中国教育促進会」としている。〕年会主任をつとめている。また、洗心社という組織を結成し、週刊紙『来復報』を刊行して、孔孟の教えを宣伝した。 1927年(民国16年)、山西省政治検査委員会委員、山西省村政処副処長となる。その後、閻錫山が北伐で北京・天津一帯に進出したことに伴い、1929年(民国18年)3月〔徐同上、劉寿林ほか編『民国職官年表』1000頁による。『平定県志』は1928年(民国17年)秋とする。〕、馮司直は天津市政府秘書長兼社会局局長に任ぜられた。閻錫山が中原大戦で敗北したため、1931年(民国20年)1月〔徐同上、劉同上896頁による。『平定県志』は1930年(民国19年)8月とする。〕、山西省政府委員兼教育庁庁長に転じた。翌年10月、辞職し、山西省政府参議に異動している。1932年(民国21年)、太原師範国民学校校長に任ぜられた。しかし1936年(民国25年)春に、学生デモを武力鎮圧したことの批判に遭い、免職されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「馮司直」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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