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馮 玉祥(ふう ぎょくしょう)は中華民国の軍人。中華民国軍陸軍一級上将。北京政府に属し、当初は直隷派であったが、後に国民軍を組織し、その指導者となった。北伐に際しては五原誓師を行い、全軍で中国国民党に加入、国民革命軍(国民政府)に参加している。旧名は基善。字は煥章。祖籍は安徽省廬州府巣県(現在の巣湖市)。 == 経歴 == === 清末の活動 === 李鴻章率いる淮軍の下級将校の子として生まれる。両親ともにアヘン中毒であったために家庭は苦しい状態にあった。15歳で軍に入り、1903年(光緒29年)に早くも武衛右軍で哨長に昇進している。第3営標統陸建章は馮玉祥の才幹を評価し、妻方の姪である劉徳貞を娶わせた。その後も馮は順調に昇進し、1910年(宣統2年)には第20鎮第80標第3営管帯になっている。 この頃までに馮玉祥は革命思想に傾倒しており、第20鎮駐屯地の灤州で、同僚の王金銘、施従雲らと「武学研究会」を結成し、これを密かに革命派の組織としていた。この研究会には、後に馮の盟友や配下となる孫岳・鄭金声・張之江・鹿鍾麟・李鳴鐘・韓復榘も加わっている。1911年(宣統3年)10月、武昌起義(辛亥革命)が勃発すると、王、施、馮もこれに呼応して灤州で挙兵して北方軍政府を樹立し、王が北方大都督、施が総司令、馮が参謀総長を称した(灤州起義)。しかしこの蜂起はまもなく清軍により鎮圧されてしまい、王と施は殺害され、馮は捕らえられた後に免職、故郷に送還されてしまう。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「馮玉祥」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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