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馮 異(ふう い、? - 34年)は後漢の武将。字は公孫(こうそん)、穎川郡父城県(河南省宝豊県)の人(『後漢書』列伝7・本伝)。光武帝の功臣であり、「雲台二十八将」の第7位に序せられる(『後漢書』列伝12)。 ==略歴== 王莽のもとで穎川郡掾を務め、父城に拠っていたが、穎川を攻略した劉秀に降った。劉秀は兄の劉縯が宛で更始帝こと劉玄に殺されたため、いったん宛に戻ることとした。劉秀軍が略奪をせず、その人物を非凡とみた馮異は管下の五城とともに劉秀に帰順することを約した。その後、劉玄軍の将で父城を攻める者が前後十数人いたが馮異は守りを固めて下らず、劉秀が再び父城を訪れた際に開城した。このとき同郷の銚期らを推挙した。 劉玄は劉秀に河北攻略の任務を与えようとしていたが、劉玄の諸将が劉秀を警戒してこれに反対していた。馮異は劉玄の左丞相・曹竟の子である曹詡にはたらきかけ、劉秀の河北派遣の実現に助力した。劉秀の河北転出に従い、邯鄲で銚期とともに属県を慰撫し、かつ地方官で劉秀の敵味方となる者を密かに判別した。 更始2年(24年)、劉秀の薊県脱出につき従って信都郡に至ると、偏将軍を拝命して王郎軍を討伐し、応侯に封ぜられた。さらに鉄脛と称する農民反乱集団を掃討し、かつ匈奴の于林闟頓王を降した。また、農民反乱集団の掃討を続ける劉秀は馮異を孟津将軍に、寇恂を河内太守に任じ、食糧の潤沢な河内を洛陽の劉玄軍三十万から守らせた。馮異は洛陽の守将・李軼(李通の従弟)を内応させ、また洛陽の周囲の十数県を平らげて十数万人を下し、さらに劉玄麾下の武勃の軍一万余・蘇茂の軍数万・朱鮪の軍数万を破った。 建武2年(26年)、陽夏侯に封ぜられ、また潁川の陽翟において賊を討った。この頃、赤眉や延岑が三輔に跋扈し、郡県の豪族も兵を擁しており、関中攻略の主将・鄧禹はこれらを平定できなかった。そこで劉秀は馮異を鄧禹と交代させることとした。馮異は弘農の群盗で将軍を自称する者十数人を降した上、華陰で赤眉の将兵五千余人をも降した。 建武3年(27年)、征西大将軍を拝命した。鄧禹と合流した馮異は、黽池に駐屯していた劉秀軍とともに赤眉軍を挟撃することを提案したが、はやる鄧禹はこれを拒んだ。馮異・鄧禹の軍は赤眉に大敗を喫したが、馮異は兵数万を呼び戻して再戦し、大勝して赤眉軍の八万を降伏させた。さらに延岑ら諸軍閥を撃ち降兵八千を得、延岑を武関から南陽に敗走させて関中を平定した。 建武4年(28年)、蜀の公孫述の兵数万が関中に侵入してきたが、馮異はこれを迎撃して破った。その後も公孫述はしばしば関中を攻めたが、馮異はこれをことごとく打ち破った。建武6年(30年)、天水の軍閥・隗囂が、公孫述に侵攻しようとする漢軍と交渉決裂し、結果、劉秀に反した。馮異は隗囂の部将を破って北地郡の豪族を降した。また、北地太守を兼任することとなった。さらに天水の北東に拠る青山胡一万余を受降し、安定郡の盧芳・匈奴の薁鞬日逐王の軍を破った。上郡・安定郡を降し、安定太守をも兼ねた。 建武9年(33年)、祭遵が没したため、征虜将軍を兼任して祭遵の部隊を率いた。天水太守も兼任し、隗純(隗囂の遺子)を援護する公孫述の部将・趙匡らを攻めること1年、これを討った。さらに隗純を攻めるが勝てず、諸将は帰還して兵を休めることを進言したが馮異は容れず、常に先鋒を務めた。建武10年(34年)夏、隗純を攻める軍中で病没し、節侯と諡された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「馮異」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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