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駅家(えきか/うまや)とは、古代日本の五畿七道の駅路沿いに整備された施設。単に駅(えき)とも称する。 == 概要 == 厩牧令によれば、原則として30里(現在の約16キロメートル〔今日知られている江戸時代以後に定められた里(1里=約4キロメートル)とは距離が大きく異なることに注意を要する。〕)ごとに駅家が設置され、駅路に面して駅門を開き周りを築地で囲む構造(「院」)になっていたことから、「駅家院」と記される場合〔『続日本後紀』承和8年閏9月庚戌(14日)条。〕もあった。兵部省の管轄下にあり、実際の運営には現地の国司も関与していた。駅家の運営・修繕のために当初は駅稲(駅起稲)より、官稲混合後は現地国の正税より出挙が行われ、その利息が財源に充てられた。ただし、その体制は天平宝字年間には早くも揺らぎ始め、駅子・駅馬の疲弊や官人の規定に反する違法乗用などが確認されている。『延喜式』には402の駅(駅家)が設置されていたことが記されている(ただし、『延喜式』は10世紀初期の規定であり、延暦年間以後進められた駅家の統廃合や新設などの影響で時期によって駅家の総数は異なっていたと考えられている)。 駅家には駅使が往来に必要とする駅馬とその乗具及び駅子が準備され、駅馬を飼育するための厩舎や水飲場、駅長や駅子が業務を行ったり詰めたりするための部屋、駅使が宿泊・休憩を取るための施設および彼らに食事を提供するための給湯室や調理場、それらの施設を運営するために必要な物資(秣・馬具・駅稲・酒・塩など)を収納した倉庫などが設置され、中には楼(駅楼)を備えた施設もあった。また、蕃客(外国からの使節)が大宰府から都に移動する際に用いられていた山陽道の駅家は建物は瓦葺で壁は塗壁とされていた〔『日本後紀』大同元年4月丁丑(14日)条。なお、山陽道の布勢駅家(小犬丸遺跡)の発掘調査においてこの事実を裏付ける瓦や壁の破片が出土している。〕。原則として駅使とその従者のみが駅家の利用を許されていたが、公私の目的を問わず位階・勲位を持つ者が旅行中に駅家で宿泊することは例外的に許されていた。 駅馬は大路の駅には20疋、中路の駅には10疋、小路の駅には5疋配置されるのが原則であったが、駅そのものが持つ地理的条件〔山道や駅路の分岐点に置かれた駅家で多くの駅馬を必要とする場合など。〕などによっても増減があった。また、川沿いの駅には駅船が配置されていた。また、駅長や駅子は駅家周辺に置かれていた駅戸から出され、その中でも経験豊富で資力もある有力者が駅長を務めていた。大きな規模の駅の場合、付近にある郷全体が駅戸である場合もあった(駅家郷)。また、周辺には駅田(駅起田・駅料田)が置かれていた。 兵庫県たつの市の小犬丸遺跡は発掘調査の結果、山陽道の播磨国布勢駅家であることが確認されたが、こうした事例は少ない。その背景には郡家が駅家の業務を兼ねているものや駅長の私宅が駅家に充てられたものも少なくなかったために、駅家の施設部分とそれ以外の部分(郡家施設や駅長およびその家族の私的空間)との判別が困難なことによる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「駅家」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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