|
(n) post road =========================== ・ 駅 : [えき] 【名詞】 1. station ・ 駅路 : [えきろ] (n) post road ・ 路 : [ろ] 【名詞】 1. road 2. street 3. path
駅路(えきろ)とは、古代律令制において定められた駅使が通行する官道のこと。 都と大宰府及び五畿七道の全ての国府を結ぶ路線であり、中央政府の命令・地方国司の報告・緊急事態の連絡はいずれもこの道を経由して行われた。古くは、駅使が駅馬(えきば/はゆま)などで往来するために馬の通行を妨げない程度の道幅とみられていたが、近年の考古学調査の成果によれば、その幅は最小で6m程度、最大では30mを超えていたことが判明している。また、直線道路という特徴も持っていた(30km以上の直線道路であることもあった〔武部健一『完全踏査 古代の道』p.92-94〕)。後世の街道も駅路に由来を持つものがある。 == 概要 == 大和と地方を結ぶ道路は大化以前から存在していたが、大化の改新以後の律令国家の形成に伴って整備が進められた。とはいえ、駅路は一朝一夕に完成したものではなく、信濃国と美濃国を結ぶ吉蘇路(木曽路)が完成したのは和銅6年(713年)のことであり、以後も駅路の整備・変更が行われている。この時代には大きな川に橋を架ける技術が発達しておらず、陸奥国・出羽国・武蔵国は東海道を経由せず、東山道に属して駅路も東山路経由で整備されていた。その後武蔵国は8世紀末に東海道に移管され、東山道は引き続き東山道に属したものの、10世紀以後は東海道を経由するルートが確立された。 駅路は重要性によって大路・中路・小路に分けられていた。大路は山陽道と大宰府道(山陽道と大宰府を結んだ区間)、中路は東国に向かう東海道と東山道、小路は北陸道・南海道・山陰道・西海道(大宰府道を除く)に該当する。この他に駅路から外れた国府と駅路を結ぶ支線が存在した。駅路には平均して30里(ただし、律令制の里は今日知られている里とは異なり、律令制の30里は現在の16km前後と推定されている)ごとに駅家(うまや)が置かれていた。しかし、全てが一律に30里であったわけではなく、例えば途中に神坂峠越えを含んだ難所として知られていた美濃国の坂本駅と信濃国の阿智駅との間の距離は74里もあった。大路の駅家には馬20疋、中路の駅家には馬10疋、小路の駅家には馬5疋が配置されていた。また、佐渡国や隠岐国、西海道・南海道など海路を経由する駅路の駅には船も設置されていた。水駅や大きな川沿いの駅には駅船も置かれていた。 全ての駅路に共通しているのは、以下の3点である〔近江秀俊『古代道路の謎』p.25-28〕。 #都と地方とを結ぶ全国的な道路網であり、その路線計画にあたっては、直進性が強く志向されている。 #道路の幅を視覚的にとらえられるよう、幅を明示するための施設(側溝)を持っている。 #通行の安全性、もしくは安定を計るため、さまざまな土木工法を用いるとともに、その補修や維持管理についても力が注がれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「駅路」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|