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駒ノ里 秀雄(こまのさと ひでお、1909年10月1日 - 1971年3月16日)は、東京府荏原郡(現:東京都世田谷区弦巻)出身の元大相撲力士。本名は近藤 秀吉(こんどう ひできち(ひでよし))。 == 来歴 == 1909年10月1日に東京府荏原郡(現:東京都世田谷区弦巻)で生まれる。1927年1月場所において山分部屋から初土俵を踏み、小兵ながら一気に土俵際まで相手を押すか左を差したまま寄る正攻法の取り口で順調に出世していき、1933年5月場所で新入幕を果たした。 所属していた山分部屋は出羽海一門に含まれていたため、本場所中でも出羽海部屋・春日野部屋などの力士と共に稽古を行っていた。最終的に三役への昇進は果たせなかったが、自己最高位(前頭2枚目)となった1936年5月場所では清水川元吉を突き出しで破るなど、上位力士に対しても通用する力量を持っていた。 右膝の関節を捻挫したことで一度は幕尻まで番付を落としていたが、1939年1月場所では前頭4枚目と久しぶりに上位へ戻っていた。そんな中、駒ノ里は3日目に双葉山定次との対戦が組まれた。双葉山定次は取組前日までに68連勝を達成しており、世間では「双葉山の連勝がどこまで進むのか」「双葉山に土を付ける(連勝を止める)力士は誰なのか」に大きな注目が集められていた。また、出羽海一門の各部屋では「打倒双葉」を合言葉に、連日双葉山対策として早朝からの猛稽古と深夜までの研究・対策会議に明け暮れていた。取組当日、駒ノ里は双葉山が繰り出した強烈な上手投げに敗れ、連勝は69までに伸びた。その翌日、駒ノ里は朝稽古でこの日に双葉山と対戦する安藝ノ海節男を指名して稽古を行ったが、安藝ノ海が双葉山を外掛けで破り、連勝を止める殊勲の星を挙げた。駒ノ里は後年、「69連勝目の相手がワシだ」と語り草にしていた。 1942年5月場所は十両で相撲を取っていたが、この場所で大きく負け越したことで体力の限界を感じて現役を引退、引退直後に師匠・山分が廃業したために部屋を継承したが、戦後直後に部屋を閉鎖して出羽海部屋所属の年寄として後進の指導に当たった。しかし、年寄としての期間は短く、1971年3月16日に死去、。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「駒ノ里秀雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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