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駿河侵攻(するがしんこう)は、戦国時代の合戦。永禄11年(1568年)に行われた甲斐国の戦国大名である武田信玄による駿河国今川氏領国への侵攻を端緒とする。 == 経歴 == === 戦国期の甲駿関係と地域情勢 === 戦国期に甲斐武田氏・駿河今川氏は、相模国の後北条氏を含めて対立関係にあった。甲斐はそれまで乱国状態であったが、守護武田信虎の頃には統一を達成し、信虎 - 駿河守護今川氏親期には甲駿同盟が成立する。天文6年(1537年)には信虎の娘定恵院が今川義元の正室となり婚姻同盟を結んだ。 天文10年(1541年)6月に父信虎を駿河に追放し国主となった武田晴信(信玄)-駿河今川義元の頃には同盟が強化され、甲駿間の外交では武田一族で甲斐南部河内領主の国衆・穴山氏が仲介している。一方、甲駿同盟の成立は今川・北条間で駿河富士郡抗争を生んでいたが(河東一乱)、武田氏は天文13年(1544年)に北条氏と甲相同盟を結ぶと今川・北条間の中人を務め、三国の同盟関係は甲相駿三国同盟へと発展する。 武田は三国同盟を背景に信濃侵攻を本格化させ越後上杉氏と対決し(川中島の戦い)、今川は西三河地方において尾張の織田氏と抗争し、北関東において上杉と対決していた北条は甲相同盟に基づき武田と相互に出兵するなど、それぞれが同盟を背景とした軍事行動を展開した。 武田の信濃侵攻は永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いを契機として一段落し、この頃には西上野侵攻の開始や、永禄8年(1565年)には信玄四男諏訪勝頼(武田勝頼)の正室に今川と対立関係にある織田信長の養女を迎え同盟を結ぶなど対外方針に変化が生じ、三国同盟は形骸化しはじめる。 一方の今川では永禄3年(1560年)5月19日に義元が尾張侵攻の途上桶狭間の戦いにおいて敗死し、氏真が当主になると三河国の松平元康(徳川家康)が織田氏と結んで離反するなど領国の動揺を招いていた。 武田では永禄10年(1567年)に義元の娘嶺松院を正室に迎えていた嫡男義信が廃嫡される事件が起こり(義信事件)、義信夫人(嶺松院)が駿府へ送還され甲駿関係は険悪化する。同年(3月の寿桂尼死後)には今川家臣への調略や徳川氏への接近が行われており、同年12月には駿河への侵攻を開始した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「駿河侵攻」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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