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騏乃嵐 和稔(きのあらし かずとし、1961年7月6日 - )は、北海道夕張市出身で、押尾川部屋に所属した大相撲力士。本名は石山 和敏(いしやま かずとし)。身長183cm、体重162kg。得意手は右四つ、寄り。最高位は東前頭2枚目(1982年11月場所)。血液型はB型。 == 来歴・人物 == 父親は、夕張炭鉱の元・炭鉱夫。中学生の頃は野球や卓球を経験し、野球では一塁手として活躍した。 中学校卒業直前に、押尾川部屋のマネジャーで夕張市出身であった工藤氏のスカウトを受けて上京し、同部屋に入門する事となった。この際に、東京都内のガソリンスタンドへの就職が決まった兄も、自身と同時に上京している。 初土俵は、1977年3月場所。押尾川部屋での同期の初土俵には恵那櫻、佐賀昇がおり、自身を含む3人全員が幕内まで出世した〔ただし、3人が同時に幕内にいた事はない。〕。 出世は3人の中で一番早く、右を差して一気の出足で寄り切る正攻法の相撲で1981年1月場所にて19歳で新十両昇進、押尾川親方(元大関・大麒麟)が育てた弟子での関取第一号となった。 1982年3月場所で20歳の若さで新入幕を果たし、同年9月場所では横綱・北の湖を堂々と破る金星を挙げ、その他にも当時大関だった隆の里の横綱昇進に「待った」をかける勝利も挙げた。これらの活躍により当時炭鉱事故で沈んでいた出身地・夕張を元気付け、「夕張の希望の星」と呼ばれた。更にこの年には東京中日スポーツ新聞が主催する新人賞を受賞し、同じ北海道出身の大ノ国(後の横綱・大乃国)と共に「将来の大関・横綱」として期待されていた。 しかし、1983年1月場所直前に行われた二所ノ関一門の連合稽古で鳳凰(二所ノ関部屋、後、関脇まで昇進)と稽古した際に左膝を痛めた。この怪我は本人にとって致命傷となり、休場を繰り返した結果、1984年1月場所では三段目まで番付を下げた。さすがにその場所では格の違いを見せ7戦全勝したものの、大事を取って優勝決定戦を棄権するほどであった。 だが、そこから必死に這い上がり1986年9月場所では十両優勝を遂げ、1987年3月場所で4年ぶりの幕内復帰を果たした。 三段目まで落ちた元幕内力士が再入幕したのはこれが史上初の事例だったが、その後、2015年1月場所で土佐豊もまた幕内から三段目まで陥落した後に再入幕を果たしている。 しかし以前のような相撲まで復活はならず、晩年は両膝とも痛め、序二段まで降下して1991年9月場所を最後に廃業〔ちなみに、元幕内力士の序二段への陥落は、男嶌以来史上2人目(昭和以降では初めて)という当時非常に珍しい記録であった。その後、初土俵同期で同部屋の佐賀昇や玉海力・鳥羽の山・若ノ城・琉鵬といった元幕内力士達が序二段、もしくは序ノ口まで陥落している。〕。大変期待された力士であったが、膝の故障のため、三賞・三役とも経験がないまま土俵を去った。 現在は、東京都江東区木場で相撲料理店、「ちゃんこ 騏乃嵐」を経営している。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「騏乃嵐和稔」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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