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高丘 河内(たかおか の かわち/こうち、生没年不詳)は、奈良時代の貴族、文人、歌人。氏姓は楽浪(無姓)のち高丘連。子に比良麻呂がいる。官位は正五位下・大学頭。 == 経歴 == 天智天皇2年(663年)に百済より帰化した沙門・詠の子孫〔『続日本紀』神護景雲2年6月28日条〕〔河内を詠の子にあてる系図もある(鈴木真年『百家系図稿』巻9,高丘宿禰)〕。 和銅5年(712年)播磨大目を務めていた際、力を尽くして正倉を建てた功績により、従八位上から正八位下に昇叙されるとともに、絁10疋と麻布30端を与えられた〔『続日本紀』和銅5年7月17日条〕。養老5年(721年)橘佐為・山上憶良らと共に、教育係として退朝後に皇太子・首皇子(のちの聖武天皇)に侍すよう命じられ〔『続日本紀』養老5年正月23日条〕、また文章道に優れていることを賞され絁15疋・絹糸15絇・麻布30端・鍬20口を与えられている〔『続日本紀』養老5年正月27日条〕。神亀元年(724年)聖武天皇の即位後に、楽浪(さざなみ。無姓)から高丘連に改姓する。 天平3年(731年)外従五位下・右京亮に叙任される。天平13年(741年)遷都に伴って人民に宅地を分け与えるために、智努王・藤原仲麻呂らとともに恭仁京へ派遣され〔『続日本紀』天平13年9月12日条〕、のち恭仁京の造宮輔を務める。しかし、翌天平14年(742年)8月には聖武天皇の紫香楽村への行幸のために、智努王らとともに造離宮司に任ぜられ〔 『続日本紀』天平14年8月11日〕、結局天平15年12月(744年1月)には恭仁京の造営は中止された〔『続日本紀』天平15年12月26日条〕。 天平17年(745年)14年振りに昇叙されて外従五位上になると、翌天平18年(746年)には内位の従五位下に叙せられるなど、聖武朝末に続けて昇叙される。孝謙朝でも順調に昇進し、天平勝宝3年(751年)従五位上、天平勝宝6年(754年)正五位下に叙せられている。またこの間大学頭も務めた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高丘河内」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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