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高久氏(たかくし)は日本の氏族のひとつ。 == 高久氏 == 常陸国那珂郡高久邑発祥。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源頼義の三男 新羅三郎義光を祖とする常陸源氏佐竹氏の支流。 佐竹常陸介行義の六男 馬渕館主 高久但馬守景義を祖とするという。嘉元年間(1303年-1305年)にその景義の嫡男 高久式部大輔義有が高久の地頭職となり現在の茨城県東茨城郡城里町高久字館のあたりに高久城を築き、代々、高久城主であった〔杉本文彦編『日本の姓氏 大総鑑』(日正出版、1997年)717頁参照。冨村壽夫、冨村尚樹共著『 佐竹氏物語 : 史上最長不倒の豪族 』(非売品、2011年)225頁、229頁参照。〕。家紋は〔日本家紋研究会編『家紋でわかるあなたの祖先 茨城県北部地方』(日本家紋研究会、2001年)26頁参照。〕。 高久氏は長く佐竹の一門としてその家中にあったが、佐竹氏に関東管領職上杉氏から佐竹義人が婿として入嗣となると、藤原氏という異姓からの養子縁組と家督相続に山入氏をはじめとする佐竹氏庶家が反発し、正長元年(1428年)、高久義本・義景親子も宗家 佐竹氏に反旗を掲げて挙兵し、これに対して宗家側として兵を挙げた同じく佐竹一門の大山義道が高久城を攻めたため、高久城は落城、高久氏は一時滅亡の憂き目にあった。 高久氏の再興は義景の子 高久時義の代にようやく果たされ、再び佐竹家中に復帰した。以降、高久氏は宗家の被官としてその配下に組み込まれたが、天文4年(1535年)年には高久義貞が同じく佐竹一門の部垂義元が宗家に反旗を挙げた部垂義元の乱に際して部垂側となって呼応し、佐竹義篤に平定され、高久城を落ち伸びたものの、のちに降伏することで赦免された。 しかし、奥羽の陸奥国守護職 伊達氏で伊達稙宗と嫡男の晴宗親子の対立が発端となって勃発した天文の乱において、佐竹氏が晴宗方となって稙宗方の相馬顕胤と合戦に及ぶと、高久氏も高久義時、義貞・宮寿丸はそれぞれ討ち死にすることとなった。 しかし、義貞には他に高久義明という子がおり御家は存続、高久義勝、直勝と続き直勝の代に佐竹義宣の出羽国秋田転封に随行し、以後、秋田藩士となる。なお、高久氏の一部はそのまま常陸国内に留まり、水戸藩に仕官する。なお、水戸藩の記録である『水府系纂』には高久彦大夫堅次の女が安島氏に嫁ぎ、水戸藩 安島彦之允信順室となる旨、記載がある〔財団法人水府明徳会彰考館蔵『水府系纂』第45巻8.5丁、145丁。〕。 また秋田遅参の諸将の中に「高久景基」なる人物がいる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高久氏」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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