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高久 隆古(たかく りゅうこ、文化7年(1810年) - 安政5年8月26日(1858年10月2日))は江戸時代後期の画家。復古大和絵派。 本姓は川勝。諱は隆恒、字は述而。通称は斧四郎。号は隆古の他に梅斎など。高隆古・泰隆古と称した。武蔵埼玉郡忍城下(現・埼玉県行田市)の生まれ。 == 略歴 == 代々阿部家の家老職を襲名する名門・川勝家の四男に産まれる。文政6年(1823年)、阿部家が忍藩から白河へ移封となり、これに随い一家も白河に移り住んだ。 隆古の父・川勝隆任は40歳で隠居し和歌や書画などの文雅に遊び、兄たちも同様に和歌や書に優れた。隆古はこのような環境の中で育つと、若いころから画家になることを志した。隆古があまりに士道に身を入れないため両親は怒り半ば勘当同然で江戸に出す。郷土の画家・蒲生羅漢の紹介を得て南画家・依田竹谷に入門。 天保3年(1832年)頃、復古大和絵派の田中訥言に私淑し京都に上るが、訥言は既に死没しておりその門人・浮田一蕙に師事する。古寺社に伝わる古画や彫刻を臨模し熱心に研究した。天保7年(1836年)に名古屋に遊歴し画人・渡辺清に学ぶ。この頃の作品には「隆古」以外に「小野四郎」の落款が見られる。 天保9年(1838年)、江戸に戻る。この頃既に両親の勘当は解かれていたらしい。豪商で書画コレクター・菊池淡雅の知遇を得て様々な支援を受ける。天保14年(1843年)、谷文晁の高弟・高久靄厓は嗣子がないまま急死。淡雅の奨めもあってその後嗣となる。しかし、高久の姓が気に入らなかったらしく高隆古と名乗った。 隆古は、南画と大和絵を融合し独自の画風を打ち出し、一家を成した。以降、関東周辺を巡遊し多くの作品を画くが、安政5年(1858年)に下総佐原からの帰途にコレラに罹り病死。行年48歳。法名「興道隆古居士」。靄厓と同じ谷中天龍院に葬られる。 弟子に淡島椿岳・小出東嶂など。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「高久隆古」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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